奈良宿院城跡
The ruins of the Syukuin castle at Nara City.
今は何の遺構もなく、普通の町並になってしまっていますが、奈良女子大学構内(奈良市北魚屋西町)を中心としたその付近は、宿院城(奈良市宿院町)の跡で、ここを1567年(永禄10)5月18日に池田勝正所属の武将が攻めます。しかし、攻撃は失敗し多数が死傷したと記録に残っています。
池田衆は三好三人衆と松永方との争いに三好方として参加しており、優勢な三好勢(池田や筒井など国衆を含めた連合軍)は次第に松永勢を大和国に追い込んでいました。
宿院城は、奈良多聞山城(奈良市多聞町)の出城になっていて、戦略上の重要な役割を果たしていました。奈良市街地の北にある佐保山の東南端にあった多聞城ですが、これを守るように佐保川が走り、その川を越えて南側は再び小高く隆起した丘陵となります。
この丘は近鉄奈良駅にかけて高さを下げていきますが、宿院城のあったあたりはこの丘の頂上部分です。ここからは東側以外は全て下り坂となっています。眺望がよく利きます。
軍事上はこういった場所を必要とし、そこを利用するのが常だったようですが、実際その場所に立つとそのことがよくわかります。
さて、宿院城の興りは平安時代に摂関家藤原氏の長者(有力者)が、春日神社参詣時に宿所とした「宿院」があったことから、その名が残ったようです。しかし、いつの頃からかそれが廃れて、戦国動乱の頃にその地を利用して陣所とするようになったようです。当時そこには某かの堂舎などがあり、それらを利用していたようです。また、当時は今の奈良公園の領域よりももっと西側まで寺院や坊舎があり、今の奈良県庁や裁判所のあたりまで東大寺・春日社の領域が広がっていたようです。
そして、松永久秀が三好長慶政権下の有力者として大和国に入り、その支配権を広げていました。更に後、三好三人衆と敵対するようになった頃、久秀は多聞城の出城として宿院城を築きました。1566年(永禄9)12月の事です。
この宿院城に、奈良西方寺に陣を取る池田勝正は攻撃を行いますが、松永方の頑強な抵抗を受けて、池田方の足軽大将下村重介など少なからず死傷者を出して後退します。
ちなみに、下村氏は池田の木部あたりの有力者だったようで、その氏族が池田家家臣として従軍していたのでしょう。
<参考>
多聞院日記、言継卿記、奈良県史11+18、奈良市史、木津町史(史料編)、柏原市史4(史料編1)、大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、奈良県の地名、日本城郭大系10、日本城郭全集9、戦国合戦大事典など
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