河内教興寺
The Kyoko-ji temple.
1562年(永禄5)5月19日の早朝、河内教興寺を中心として大合戦が行われました。これに池田長正も三好長慶方松永久秀勢として加わっていました。
さて、この教興寺は今の大阪府八尾市教興寺にあり、その起源は聖徳太子の頃と云われる古刹です。
同寺発行の縁起によると、「聖徳太子が物部守屋を征伐した時、秦 川勝が太子の発願を受けて、高安の里に仏教を始めて興すという意味の寺「教興寺」を建立し、獅子吼山大慈三昧院と号した。
金堂に弥勒菩薩、講堂に千手観音を安置、堂宇は高安山麓一帯に建てられ、南の大門を入ると泉池があり、これを渡って本堂に達する臨池式堂塔配置をなしていたと伝えられる。
教興寺は鎌倉時代に荒廃したようだが、室町時代になると、足利尊氏が弟の直義に命じて、安国寺と利生塔を全国に建立する事となった時、教興寺内に利生塔が建てられて、これがきっかけで再び繁栄する事となった...。(後略)」などとあります。
そんな教興寺に反三好長慶の旗を翻して、河内守護を追われた畠山高政方旗本衆(高政自身が陣取ったとも)が陣を取りました。湯川宮内少輔直光など高政と関係の深い紀州の国人衆などが陣取っていました。
この陣に長慶方久秀勢が、早朝から奇襲攻撃を行って、高政勢を壊滅状態に追い込みます。池田衆も参戦していたのですが、詳細は不明です。
また、残念な事に、この合戦で教興寺の伽藍など多くの施設を消失してしまいます。
時は流れ、江戸時代に入った1679年(延宝7)、南河内に生まれた浄厳覚彦和尚によって本堂・祖師堂・鐘楼が再建されています。また、覚彦和尚と親交のあった近松門左衛門を教興寺に長期滞在したようです。
参考: 教興寺縁起、八尾市史(前近代)本文編P420+P426、
大阪府史4-P362、三好長慶P210、柏原市史4(史料編1)P197、
戦国期歴代細川氏の研究P359、狭山市史2-P607など
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