タイトル:幕末の池田関係の図録
画像:大塩平八郎大塩平八郎像 
A high class public servant Heihatiro osio
(大阪市立博物館蔵)

平八郎の先代は今川氏の臣で、主家の滅亡後は徳川家に仕えました。
 大塩氏は小田原の役で敵将を馬前で倒した功により、家康から直々に弓を賜ったということです。その後は、大坂冬・夏の陣にも従軍して功があったようでそれ以来、徳川家に出仕する事になります。日本の歴史上、超有名な大塩平八郎の家系はその分家が大坂の市吏となって赴任しました。

 平八郎は、幼くして両親に先立たれて祖父の大塩政之丞の薫陶を受けて育ちます。性格は峻厳で容易に人に従わないというところがありましたが、14才で大坂東町奉行所与力見習いとなって以来、奸吏糾弾や破戒僧遠島等を指揮して大坂にその名を知られる存在になります。また、自己の信条に共鳴する上司、高井山城守にも恵まれました。

 町方与力という役職は誘惑が大変多いのですが、幼い頃から陽明学に傾倒していた平八郎は清廉潔白の人柄で、賄賂などは一切受け取らなかったといいます。一方で、平八郎は公務の合間に求められては陽明学を講じていました。その学識は、本家の頼山陽自身にも認められて「小陽明」といわれる程でした。1830年(文政13)、高井山城守の役が解かれたのを機に、養子の格之助を立てて38才の若さで隠居します。きっと、平八郎は在職中から開いていた有名な私塾「洗心洞」での陽明学の講議を更に力を入れたのでしょう。また、「洗心洞箚記」三巻を記したりもします。ちなみにその後の大塩一揆には、洗心洞の門下も多数参加しています。


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