タイトル:幕末の池田関係の図録
写真:山川正宣の墓山川正宣の墓
The Masanobu Yamakawa's grave in the honyo-temple.

山川正宣は1790年(寛政2)3月17日に生まれ、1863年(文久3)10月22日に没しました。74歳でした。彼は西大和屋の酒造家(第十一代当主)で、その蔵と住居は、今の綾羽モータープール(栄本町)となっています。実際に見ると大変大きなもので、こんな酒蔵が池田には沢山あったようです。
 また正宣は、小さい頃から考古学に興味を持ち、遂には皇陵研究者として「山陵孝略」(安政2年出版)など多数を記し、研究者として世に知られるようになります。後にその功績を讃えて、大正天皇より「従五位」追贈がなされました。「従五位」とは、江戸時代で言えば大名クラスの官位ですので、仰天する程名誉な贈り物です。
 それから、山川家は戦国時代の池田家の家臣で通久を名乗ったと、「山川家来由」にあります。それによると、その先祖は森氏だったそうです。その森氏の妻が丹波の住人山川伊兵衛の娘で、二子をもうけます。その後、荒木村重の謀反などを経て、丹波福知山に逃れて、後年再び池田に戻って商売を始め、この時母方の姓を名乗り、それが代々続いたようです。山川家の歴代の墓は、本養寺にあり、「山川家来由」も同寺にあります。

 さて、幕末の池田ですが、山川家は富裕の大家でしたので、池田村の有力者となり取締役に指定されていました。指定した側はいわゆる幕府です。幕末当時の池田町域(集落)は、株という行政区で区切られていて、それが5つに分けられていました。内2株は天領です。また、池田郷は江戸時代初期には、1つの株運営されていました。
 このあたりの関係は大変複雑ですが、興味深いところで、実は海外でもこの事が研究対象になっているそうです。
 また、話しが脱線しましたが、ご存じのように幕末と言えば、政情不安の時で、不穏な動きに日本中が包まれている中、取締役である正宣が、当時のインテリである儒者広瀬旭荘との語らいで、尊王攘夷論を唱えたと伝わっています。天領である池田の知識人や豪商が、このような考えになっていた事は興味深いところです。
 それまでの「幕府」という揺るぎない存在が、人々の心から消えようとしていた時でもあると思います。信用や威信の低下による崩壊は、いつの時代にも起きる事であり、現代と言えどもありえない事ではないと思います。それは、地域と言わず、会社やグループなど色んな分野でも当てはまる事だと思います。

 そういう意味で、このエピソードは興味あるものだと思います。ちょっと考え過ぎかと思いますが....。


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