蜂起の様子
About the Osio uprising in Osaka
(大阪市立博物館蔵)
1837年(天保8)2月19日は釈奠日(孔子を奉る日)で、しかも大塩は、先に着任した東町奉行所の跡部山城守が、遅れて西町奉行所に就任した堀利堅と共に市中を巡検した後、大塩邸の向かいにある与力、朝岡助之丞邸に入るという情報を入手していました。大塩父子一行の蜂起軍は、その時刻に合わせて蜂起する計画を立てていました。
しかし、決起の前日から前々日にかけて奉行所に内通する者が出たために、予定を早めて2月19日早朝、用意した大筒が向いの朝岡邸に火を吹いて乱は始まりました。武装した大塩勢は、もう帰る事のない自邸にも火をかけ、近隣から動員された農民勢なども加えて船場に向いました。一揆勢は、手に手に焙烙玉(手留弾)を持ち投げ散らして豪商を焼き討ちしました。彼らは「救民」の幟を掲げて前進しますが、淡路町付近で町奉行勢の攻撃を受け銃撃戦となります。が、間もなく大塩勢は壊滅させられます。約300人の大塩勢は四散して蜂起は鎮圧されます。蜂起の時間は僅か半日でした。
この時起こされた火災は、大坂の町を五分の一も焼失する被害を出しました。その後、摂津や河内では大塩に呼応して蜂起する者が相次ぎました。大坂市中で多くの被災者を出した大塩の乱でしたが、大塩を悪く言うものはあまりいなかったといいます。それどころか「大塩死せず」と噂を流す者もあったそうです。
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