興福寺
Kofuku temple
能勢騒動終焉の地の興福寺。山田屋大助は本堂横の方丈の間で自刃しました。山田屋は、大塩平八郎の愛弟子だったとも言われていますが、惨殺したり、庄屋に押掛ける等といった蛮行もあったため縁の地などでは賛否両論です。しかし、何を思い何を成したかったのかという理由を客観的に捉え、歴史として後世に伝える事も大切だと思います。
興福寺は三田市木器(こうづき)にあり、寛文年間(1661〜1672)に月峯首座旧基を再興し、太寧寺十一世密心文察大和尚を拝請して開基するとあります。下って寛政6年(1774)に本堂・庫裏再建の後、昭和49年(1974)強風下に火事が起きその類焼で主だったものは全焼してしまいます。残念ながらその当時から残る建造物はありません。
天保8年(1837)7月2日早朝から行動し始めた一揆勢は最盛期には1,500人余りが参加する大きな騒動となりましたが、同5日17時には首謀者が討ち取られて終わります。本来の進路とは逆方向に進み、どこに向かおうとしたのかは定かではありませんが、三田の木器まで進んだあたりから、一揆鎮圧の部隊が活発になりはじめ止むなく興福寺へ入り篭城策をとりました。行って見たところ、興福寺の裏手は急な山で前は丘陵です。しかし、急に落ち込みながら下って行きますので天然の要害という感じの所でした。ここで首謀者が一揆鎮圧部隊から狙撃されたり、捕縛されたりして「この先無し」と観念した山田屋大助は鉄砲で自殺しました。
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