幕末頃の池田の錦絵
About the ikeda in the edo period
(伊丹市立博物館蔵)
古文書によると池田は、鎌倉時代頃から町の形成をし始めたようです。先天的な地理的好地から軍事面・商業面を掌握する有力者が次第に統治を確立していきます。その後、池田城が建造されて、戦国時代の末期まで城下町として機能していました。しかし、江戸時代までには城が破棄されたので、今度は城下町ではなく、物資の集散地として賑わいをみせます。しかし池田は依然、軍事的にも街道を多く交差させた要地だったので、江戸時代も幕府の直轄地でした。ちなみに左の絵は錦絵で有名な「歌川一門」による幕末の絵です。手前は池田で、奥に伊丹が描かれています。
江戸時代初期から、都市産業としての酒造も盛んになったり、その他の交易が活発に行われたために町は大変富み、近在でも希な発展を遂げました。大坂圏ではありましたが、池田には独自の文化サロンのようなものがあり、独特の文化圏があったようでした。文化も然ることながら、商高も膨らみ、江戸時代の始めには1株だったものが、幕末には5株にも別れていました。池田の18世紀頃の納税割り当ては、1700石でした。普通の村で400石程度だったことを見ても大変大きな町だったようです。戸数も1447戸(1697年調ベ)と現在の大阪府域では最大の規模でした。その後も北摂の中心都市として機能し、戦後暫くまでは最大の都市でした。
池田の株所有者の中に、幕府や一ツ橋家、九条家、船越家、渡辺家、飯野藩などが関係していたために、維新後には新政府軍が当然、その資産の差し押さえに来たと思われますが、(現在その関係資料はありませんが)移項は平穏だったのか混乱はなかったようです。
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