タイトル:幕末の池田関係の図録
画像:大塩平八郎の乱後引上げる奉行所隊引上げる奉行所隊
The view of the war end
(大阪市立博物館蔵)

大塩の乱は19日の朝始まり、夕刻前に終わって奉行所隊や大坂城からの援兵は引き上げました。しかし、その後の残党の捜索は峻厳を極めて、近隣の村々では池の捜索や井戸浚えまでして追跡しました。やがて3月27日に大坂城代土井利位指揮の下、与力内山彦次郎等によって大塩の潜伏先の商家が包囲されます。平八郎は息子の格之助と重なり合うようにして自刃し、隠れ家は焼け落ちました。
 大塩の乱の判決が江戸の評定所によって、事件の翌年(1838年)の八月に出されました。それによると、磔・獄門・死罪・遠島(島流し)などの重刑から過料等の軽い刑まで含む処罰者は、750名に及びました。これに取り調べ中の獄死者を含めるともっとその数字は膨らみます。大坂市中の外れの鳶田刑場には、大塩父子をはじめ19名の死骸が磔刑にされていました。磔られた死骸の横には、ひとりひとりにその罪状が書かれた木札が立ててありました。
 見せしめとしてこれほどまでに厳しい処罰がされたのに、大塩に続く乱は多発し全国に広がって行きます。大塩の乱に影響されたと思われるのは、同年六月に越後柏崎で生田万の乱、同年七月に摂津能勢で能勢騒動が挙げられます。これらの乱では、檄文を配布し「大塩党」を公言した直接的な波及事件と言われています。幕末まで既存制度に不満を持つ集団が、日本各地で一揆を盛んに起こします。以後、幕府を始め各藩はこれらに悩まされることになります。


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