タイトル:幕末の池田関係の図録
画像:天保飢饉の様子天保飢饉の様子
About the tenpo femine in 1833-1839
(国立国会図書館蔵)

その惨状が今も伝えられている天保の飢饉の前にも享保の飢饉(1732〜1733年)・天明の飢饉(1782〜1786年)と二度にわたり大きな飢饉がありました。
 享保飢饉の際には害虫による被害が出、それは主に西日本が中心でした。期間も1年だけでしたが、その影響で西日本に飢饉が大規模に発生しました。当時幕府の対応策も貧弱だったために多くの餓死者を出しました。

 続く天明の飢饉は、異常気象による数年に渡る不作を出し、主に東北地方でひどい飢饉に見舞われました。先の享保の飢饉で様々な制度改革や飢饉に対する貯えをしていたにも関わらず、大きな被害を出しました。この時の状況を本多利明という経世家は「天明三以後四ヶ年、凶歳飢饉にして奥州一ヶ国の餓死人数凡二百万人余」と記しています。この飢饉は江戸時代を通じて最大の飢饉となりました。

 天保の飢饉はその最大の死者数を出した天明の飢饉から50年近く経とうとし、また、徳川家斉の大御所政治の下で農民経済が進展を見せ始め、人々は未来の明るい世相に疑いを持ちませんでした。そんな中、前回の飢饉と同じく異常気象が原因で、1833年(天保4)から1839年に及ぶ7年間、これも東北を中心に凶作が続きます。全国的に食料不足に陥って、大坂でも供給される米の不足が続きました。また、大坂市中での餓死者も日に日に増える中、十二代将軍家慶の就任式用に大坂の町奉行が市中の米を集めて、江戸へ廻送するという失政が更に多くの被害を出すに至ります。


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