大塩発行の施行札
A coupon for charity during famine published by Osio
(明治大学刑事博物館蔵)
大塩平八郎の隠居後に天保の飢饉は起こります。飢饉の起った最初の年の1833年(天保4)から翌年にかけ、救援措置としての大塩の献策が受け入れられます。直ちに大坂東町奉行の矢部駿河守指揮の下で救済にあたりました。農民と対局にあった市中の豪商等に儀捐を求める一方、米の買い占めや堂島での米相場に制限を加えるなどして積極的に施策を打ち、なんとか成功を収めました。
しかし天保7年から翌年にかけての飢饉では、矢部駿河守に代わって着任した老中水野忠邦の弟、跡部山城守の赴任の後、飢饉は更に悪化して行きます。跡部山城守は、平八郎の献策を聞き入れないばかりか、新将軍宣下の式典用に部下を奔走させて、米を江戸へ大量に廻米していました。また、米の他国への移動を禁じ、更に自家用の米の購入も罰するという暴挙に至り、結果的には事態に更なる拍車を懸け深刻化させました。
平八郎は、憤激し自ら事態の打開を目指して豪商等に説いて回りますが、これも跡部山城守の圧力で阻止されます。平八郎はやむなく、武力を持って姦吏を成敗することを決意します。まず、その根回しとして平八郎所蔵の蔵書を売却し、その売却益で窮民に施しました。金一朱づつを約一万人に配給したといいます。一朱は当時、米にすれば三合程になったといいます。同時に、配られたのが、この施行札でした。施行札を受取る者には「天満辺に火の手が上がれば必ず駆けつけるように」と言付けがされていました。
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