広瀬旭荘像
Pictures of Kyokuso hirose
(廣瀬資料館蔵)
江戸時代の儒学者で詩人でした。こんな事を書くと不謹慎だと叱られるかもわかりませんが、栗のようなお顔をされた愛嬌さえ感じる先生ですね。
さて、旭荘は豊後(大分県)日田の諸藩御用達の家に生まれ、6才の頃から25才年上の長兄、淡窓の教えを受けて育ちます。年を追うごとにその才能に磨きがかかり、また、筑前の亀井昭陽、筑後の樺島石梁、備後の菅茶山等にも学びます。その才は淡窓の認められるところとなって、淡窓一門の跡を継ぐべく養子に迎えられます。
旭荘は咸宜園を、1831年(天保2)に淡窓に代わって引き受け、塾の経営に当たりました。咸宜園は1805年(文化2)に始まり1887年(明治30)まで存続しますが、年齢、身分を排して成績による等級のみで序列がつけられていました。中央から遠く離れた豊後日田にあっても多くの入塾希望者が集まり、閉塾するまでにわかっているだけで4,112名に上っていていますが、実際はもっと多かったようです。入門簿の中には、大村益次郎や高野長英の名も見られます。
旭荘の性格は、兄の淡窓とは対照的で、豪胆で行動派でした。博多、長崎に遊学して一旦は帰郷しますが、1836年(天保7)にはまた郷里を離れて、和泉堺に私塾を開きます。次いで、江戸に出て幕府儒官林述斎の門に出入りして、またも帰坂します。その後大村藩に招かれたりして何度か大坂を離れますが、役を終える都度大坂に戻ります。旭荘は、また、詩人としても活躍したり、佐久間象山や吉田松陰とも交友を結んで活発に活動していました。
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