池田知正画像
Pictures of the Tomomasa Ikeda.
(池田大広寺蔵)
伝承的な記述によると、池田知正は、実質上最後の摂津池田家惣領(当主)となった池田筑後守勝正の弟とされています。摂津池田家系図のどれもが、その旨を書き残しています。しかし、少々複雑なのは、知正の死亡年から、その年令を差し引くと、1555年(弘治元)生まれとなり、兄とされる勝正とはかなり年の差があります。加えて、知正と勝正は、母の違う異母兄弟とする記述もみられます。
知正については、資料もあまりなく、わからない事も多い人物ですが、戦国時代の池田氏やその地域を見る上では、重要で、その活動を注意深く見る必要があります。 知正は、近世時代に入る頃には没落してしまった池田家を継ぐに値する血統と格式をを持っていた人物のようですが、それまでの正統とは言えない家柄でもあったようです。
摂津池田家の惣領(当主)は、代々「筑後守」という官名を名乗りますが、知正はそれを公称する事は無く、代わって「備後守」を名乗りました。そしてその官名を名乗ったものも、彼の死の数年前のようで、任官も遅かったようです。
また、「知正」という、池田家の通字とされる「正」のつく諱も、長い間、名乗らなかったらしく、それまでは「重成」を名乗っていたようです。
ですので、知正の一族は、「備後守」を継ぎ、「重」か「成」を受け継ぐ家系だったとも考えられ、「正」を使用する一族とは別の池田一族だったのかもしれません。
故に、1570年(元亀元)6月の池田家内訌(いわゆるクーデター)の時に、その時の当主だった勝正の代わりとして、知正が置かれたとするには大変な疑問があります。
その時には、摂津池田家といえば、大きな勢力を保ち、それまでの歴史から、正統と目される家柄の流派はいくらでもあって、支流と考えられる知正の家系が当主に選ばれるのは、考え難い事です。また、当時の史料からも、知正の名を直接見る事はありません。
知正は、池田勝正が家を出た後に、摂津池田家に残っていたとは思われますが、中心的な実力者ではなく、その一員だったと考えられます。更にこの時の年令も計算上では15才程となります。まだ知正は小姓のような身分だったのかもしれません。
逆に、知正は、勝正と共に一旦、家を出たと考える事も、全く否定できる事ではありません。実際、その直後の天正元年頃の出来事として、知正は、村重と対立していて、信長などに和解するよう勧められたとする資料もあります。
さて、間もなく、池田家は再び分裂し、荒木村重の台頭を許し、実質的に池田家は解体状態となります。
その後知正は、村重方として働いきますが、その村重も織田信長に滅ぼされ、その信長も明智光秀に滅ぼされ、そして、光秀も豊臣秀吉に滅ぼされて、豊臣時代を迎えます。
知正は、豊臣政権内で五千石程度の知行を池田周辺で得て、家の再興を志向したようです。この頃には、戦国の世も収束の兆しを見せており、戦乱で方々に散った人々も再び元の池田へ戻り始めていたようです。
しかし、それらの縁故の人々は、武士にこだわらない人も多くあり、各々の道を歩みました。そんな中で、知正は、武士を続ける事を選んだ人物でした。知正は、武士を選ばなかった人々と共に、池田の再興を職種の違いに関係なく、望んだ人だったのかもしれません。
知正は、1582年(天正10)の山崎合戦、賎ヶ岳合戦、小牧・長久手合戦(この時約90名で、秀吉本陣近くに在陣)、関ヶ原前哨戦(小山の陣など)から関ヶ原合戦を経て、泰平の世を迎える直前に世を去りました。
池田備後守知正は、1604年(慶長9)3月18日、49才で亡くなりました。その場所は、神田館(現池田市神田)だったと記されています。
また、彼の画像は、知正の後を継いだ池田光重が、知正の死後にその生前を偲んで描かせたものとされています。通字に「重」を用いる同じ一族だったからでしょう。勝正など正の通字を用いる家系の肖像画は1点も伝えられていません。
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