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<有岡城攻めの拠点、池田>
「天正6年秋、荒木村重は織田信長に対して突然の謀反を起こします。」というのが今では定形パターンの通説となっています。
しかし、軍事・政治上の重要な時期に、政権維持の「要」となる勢力が政権から離反している事は、織田信長の歴史を見ればすぐにわかります。信長の最後も同様です。
歴史とは、人間の歴史です。文字に残されていない個人の感情的なところにこそ、社会の転換点となる起源が隠されているのかもしれません。また、歴史は経済利益の歴史でもあります。この配分を巡って、日本人、いや人類は常に闘争を繰り返しています。
村重の場合も、信長との間にそういった乖離を生じていたのでしょう。その真相は、まだ明らかとなっていませんが、村重は、天正6年という織田政権にかげりが見え始めた時期に、敵味方のどちらにとっても重要な「摂津国」という土地を「質」として、自己の方針を大転換させました。村重は、天正6年秋、織田政権から離脱したのです。
この報に接した信長は、さすがに驚き、朝廷を通じた和睦を講じた程の深刻さでした。
しかし、村重の謀反と同時に起きた摂津国木津川沖での毛利輝之方との海戦で、圧倒的な勝利を収めた事から、和睦の方針を撤回し、軍事制圧の方針に切り替えて、大軍を以って一気に攻め寄せました。
この時も信長の常套手段である電撃戦が行われ、村重は体制を整える間もなく拠点を次々と落され、或いは攻囲され、想定されていた相互補完もままならず、各々の城で籠るしか手盾がありませんでした。
やはり、信長は政権の頂点に立つ人物ですから、その着目と行動はいちいち的確で、村重が唯一信長に勝ったのは、よく考えられた拠点となる城の防御構造のために、一方的な落城を阻んだ事だけという、専門性のみの突出でした。
この荒木討伐戦では、初戦で京都に最寄りの拠点が大軍に攻囲され、間もなく茨木と高槻は開城し、有岡・尼崎・花熊・三田のみが辛うじて残る守勢に立たされています。
信長は、早々に池田を落し、ここを本営として、約一年間、有岡城攻めを続けます。
さて、信長はなぜ池田を重視し、本営を置いたのかを考えてみたいと思います。答えから先に示すと、最も多くの主要街道を持つ池田を押さえる必要があったからです。
先に述べた、摂津国そのものが、周辺国との街道を通じるロータリー構造とするなら、池田は摂津国内の同じ役割りを持つ縮小版で、非常に重要な位置付けにあったからです。
また、地形としても、有岡城の北側にある丘陵及び山岳、渓口部で、有岡城や兵庫方面を俯瞰する事ができます。それ故に、池田を最重要視し、いち早く陥落させたのでした。
これは、逆の立場でいうと池田を保持していれば、どの領内拠点にも移動が可能で、また、補給に欠かせない絶対防衛拠点でもありました。
そんな池田を巡って、やはり激しい攻防戦があったようです。「穴織宮拾要記 本」という伝承記録には、「三日後定明山越ニ帰り見れハ 御殿一宇も不残、森もやけ」や「一 天正之乱■(ニ?)当国大形在々所々三日三夜之内ニ焼はらわれ方々へにけちらし、金銀たくわへ有人ハ他国ニ住ス也」とあって、戦闘の激しさを伝えています。
今のところ、公式見解としては、天正3年4月以降は、池田城は廃城となって、その後は捨て置かれたかのような想定がされていますが、前述のように重要な場所である池田が、はたして、空き地のように何年も放置されたのかどうか、現時点の公式見解に疑いを持たざるを得ません。
そしてとに角、池田は織田方に落ち、有岡攻めの拠点となったのでした。また、有岡攻めの様子が、「信長公記」には度々登場しています。
といった感じで、特に荒木村重が、織田信長政権を離脱した時あたりの記録には、「池田」が頻繁に登場します。池田は交通の要衝でもあり、また付近の地形的な事情からも重要な場所だった事が、この一連の記録からもよくわかります。
しかし、記録の中に「池田へ帰城」とあるのは、1574年3月以降には池田城は(一旦)廃城となっていたとされていますが、発掘調査によると一時的に城の施設を再利用しているようでもあるので、信長公記などの資料なども考え併せると、この時は旧城地に手を加えて利用しており、それが「陣」ではなく、「城」と捉えられる程の規模のものであったと思われます。
程なくして、有岡城も落城し、村重方からの組織的な抵抗がなくなると、信長公記にも池田の名が登場する頻度は低くなります。最後まで村重方の城として残ったのは、毛利方などと補給線のつながっていた花熊城でした。そして、その最後の城を池田恒興勢が落とし、荒木討伐を終えます。
乱後間もなく、摂津国に禄を得た池田恒興は、伊丹に入り、村重と同じくその政治・軍事の中心地とします。