ページナビゲーション:呉江舎
ページナビゲーション:呉江舎
ボタン:ホームへ ボタン:わが街池田 ボタン:五月山 ボタン:池田の観光 ボタン:池田の特産 ボタン:池田の町並
ボタン:ぶらっとええとこ ボタン:企画予定コンテンツ ボタン:アクセス池田 ボタン:リンク ボタン:訪問者筆記帳
バナー:親愛なる池田市様
ページタイトル:池田城

※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<有岡城攻めの拠点、池田>
「天正6年秋、荒木村重織田信長に対して突然の謀反を起こします。」というのが今では定形パターンの通説となっています。
 しかし、軍事・政治上の重要な時期に、政権維持の「要」となる勢力が政権から離反している事は、織田信長の歴史を見ればすぐにわかります。信長の最後も同様です。
 歴史とは、人間の歴史です。文字に残されていない個人の感情的なところにこそ、社会の転換点となる起源が隠されているのかもしれません。また、歴史は経済利益の歴史でもあります。この配分を巡って、日本人、いや人類は常に闘争を繰り返しています。
 村重の場合も、信長との間にそういった乖離を生じていたのでしょう。その真相は、まだ明らかとなっていませんが、村重は、天正6年という織田政権にかげりが見え始めた時期に、敵味方のどちらにとっても重要な「摂津国」という土地を「質」として、自己の方針を大転換させました。村重は、天正6年秋、織田政権から離脱したのです。
 この報に接した信長は、さすがに驚き、朝廷を通じた和睦を講じた程の深刻さでした。
 しかし、村重の謀反と同時に起きた摂津国木津川沖での毛利輝之方との海戦で、圧倒的な勝利を収めた事から、和睦の方針を撤回し、軍事制圧の方針に切り替えて、大軍を以って一気に攻め寄せました。
 この時も信長の常套手段である電撃戦が行われ、村重は体制を整える間もなく拠点を次々と落され、或いは攻囲され、想定されていた相互補完もままならず、各々の城で籠るしか手盾がありませんでした。
 やはり、信長は政権の頂点に立つ人物ですから、その着目と行動はいちいち的確で、村重が唯一信長に勝ったのは、よく考えられた拠点となる城の防御構造のために、一方的な落城を阻んだ事だけという、専門性のみの突出でした。
 この荒木討伐戦では、初戦で京都に最寄りの拠点が大軍に攻囲され、間もなく茨木高槻は開城し、有岡尼崎・花熊・三田のみが辛うじて残る守勢に立たされています。
 信長は、早々に池田を落し、ここを本営として、約一年間、有岡城攻めを続けます。
 さて、信長はなぜ池田を重視し、本営を置いたのかを考えてみたいと思います。答えから先に示すと、最も多くの主要街道を持つ池田を押さえる必要があったからです。
 先に述べた、摂津国そのものが、周辺国との街道を通じるロータリー構造とするなら、池田は摂津国内の同じ役割りを持つ縮小版で、非常に重要な位置付けにあったからです。
 また、地形としても、有岡城の北側にある丘陵及び山岳、渓口部で、有岡城や兵庫方面を俯瞰する事ができます。それ故に、池田を最重要視し、いち早く陥落させたのでした。
 これは、逆の立場でいうと池田を保持していれば、どの領内拠点にも移動が可能で、また、補給に欠かせない絶対防衛拠点でもありました。
 そんな池田を巡って、やはり激しい攻防戦があったようです。「穴織宮拾要記 本」という伝承記録には、「三日後定明山越ニ帰り見れハ 御殿一宇も不残、森もやけ」や「一 天正之乱■(ニ?)当国大形在々所々三日三夜之内ニ焼はらわれ方々へにけちらし、金銀たくわへ有人ハ他国ニ住ス也」とあって、戦闘の激しさを伝えています。
 今のところ、公式見解としては、天正3年4月以降は、池田城は廃城となって、その後は捨て置かれたかのような想定がされていますが、前述のように重要な場所である池田が、はたして、空き地のように何年も放置されたのかどうか、現時点の公式見解に疑いを持たざるを得ません。
 そしてとに角、池田は織田方に落ち、有岡攻めの拠点となったのでした。また、有岡攻めの様子が、「信長公記」には度々登場しています。

『荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事』
(前略)
寅十一月廿七日、郡山より
古池田に至りて御陣を移さる。其の日の朝、風吹き候て、寒気大方ならず、晩に及び、中川瀬兵衛、御礼に古池田に祗候なり。
(後略)

『丹波国波多野館取り巻くの事』
(前略)
十二月十一日、所々に付城仰せ出だされ、信長公、
古池田に至って御陣を移さる。
御取出御在番衆
一、堀口郷 惟住五郎左衛門、蜂屋兵庫、蒲生忠三郎、高山右近、神戸三七信孝。
(中略)
一、
古池田 塩川伯耆守
(中略)
十二月廿一日、信長公、
古池田より京都に至りて御馬を納められ、其の日、雪少し宛降り候へキ。
(後略)

『摂津国御陣の事』
(前略)
三月七日、信長公、
古池田に至って御陣を居えさせられ、諸卒は伊丹四方に陣取り。越州衆、不破、前田、佐々、原、金森、此れ等も参陣なり。
(中略)
四月八日、御鷹野へ御出で、
古池田、東の野にて御狂(クルイ)これあり。御馬廻・御小性衆には、馬を乗させられ、御弓衆、御そばにをかせられ、二手に分けて、馬乗衆、御責子(セコ)衆の中へ懸け入り候はんと、馬を懸けられ、信長公、御せこ衆と御一所に御座候て、塞がせられ、御狂ありて、御気を晴らせられ、其れより直ちに御鷹野なり。

『二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科右衛門督殿・嵯峨策彦・武藤弥兵衛、病死の事』
四月廿六日、
古池田まへ、信長御出でなされ、御狂あり。以前の如く、御馬廻・御小性衆、近衛殿・細川右京太夫殿、是れも、御馬をめされ、二手に分れて、御足軽御懸け引き、面白く遊ばし、御気を晴らせられ候。
(中略)
四月廿九日、
古池田まで御帰陣。信長公へ播州表の様子仰せ上げらるゝのところに、即ち、御下国候への旨、御諚候。其の日、東福寺まで御成り、次の日、岐阜に至りて御帰城。越前衆、惟住五郎左衛門、御敵城おうごの城へ差し向かひ、取出申し付け、古池田へ帰城(←城!?)候て、様子言上のところ、越前衆御暇下され、帰国候なり。其の外衆、伊丹表定番仰せ付けられ候へキ。
(後略)

『北畠中将殿御折檻状の事』
(前略)
北畠中将殿
九月廿四日、山崎より
古池田に至りて、御陣を移さる。
九月廿七日、伊丹四方御取出御見舞。古屋野にて、滝川左近所に、暫らく御逗留。其れより、塚口、惟住五郎左衛門が所に御成り、御休憩なされ、晩に及び、
池田へ御帰り。次の日、九月廿八日、御帰洛。其の日、始めて茨木へ御立寄り。

『伊丹城相果たし、御成敗の事』
(前略)
三月五日、御馬を寄せられ、信長、
池田に御陣を居えさせられ、中将信忠、加茂岸にちかぢかと御取出寄せさせられ、伊丹四方に堀をほらせ、塀・柵を二重三重、丈夫に仰せ付けらる。
(後略)


 といった感じで、特に荒木村重が、織田信長政権を離脱した時あたりの記録には、「池田」が頻繁に登場します。池田は交通の要衝でもあり、また付近の地形的な事情からも重要な場所だった事が、この一連の記録からもよくわかります。
 しかし、記録の中に「池田へ帰城」とあるのは、1574年3月以降には池田城は(一旦)廃城となっていたとされていますが、
発掘調査によると一時的に城の施設を再利用しているようでもあるので、信長公記などの資料なども考え併せると、この時は旧城地に手を加えて利用しており、それが「陣」ではなく、「城」と捉えられる程の規模のものであったと思われます。

 程なくして、有岡城も落城し、村重方からの組織的な抵抗がなくなると、信長公記にも池田の名が登場する頻度は低くなります。最後まで村重方の城として残ったのは、毛利方などと補給線のつながっていた花熊城でした。そして、その最後の城を池田恒興勢が落とし、荒木討伐を終えます。
 乱後間もなく、摂津国に禄を得た池田恒興は、伊丹に入り、村重と同じくその政治・軍事の中心地とします。



画像:池田城跡発掘調査

発掘調査報告書

写真:池田城跡

池田城跡公園
<マップB-3>

写真:旧能勢街道

旧能勢街道
<マップB-4>

写真:伊丹(有岡)城跡

伊丹城

画像:荒木村重

荒木村重像

画像:織田信長画

織田信長像

写真:旧西国街道

旧西国街道

画像:池田恒興像

池田恒興像

「荒木村重が摂津国を支配した頃」

←・→

「豊臣の世の頃」

一覧へ戻る


▲ページのトップへ


呉江舎について個人情報の取扱い免責事項│ 


バナー:ホームページ制作の池田屋
当サイトは、ホームページ制作の池田屋が、
管理・運営致しております。
Copyright (C ) Ikedaya All Rights Reserved.