見出し:池田城関係の図録
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写真:尼崎城跡摂津国尼崎城跡
The amagasakicastle of remains.

摂津国人池田氏ともつながりの深い尼崎城跡です。その興りは、ここもはっきりとはしないようですが、1519年(永正16)2月17日とされ、築城者は細川高国が細川尹賢(ただかた)に命じて、尼崎に城を築かせたようです。
 写真は尼崎市中央図書館に再現されているお城を偲ばせる壁ですが、図書館の階段から覗き込むと、どうやら城跡公園にでもすべく整備をしているようでした。江戸時代には要衝として、戸田氏により一大城郭に拡張され大変立派な城に生まれ変わっていたようです。しかし、惜しくも明治維新により破却されました。
 数年後にはそんなかつての立派な城をイメージできる公園になっている事でしょう。楽しみですね。

 尼崎は平安時代以来、西国から京都・大坂へ向かう水陸双方の交通の要衝(尼崎から京都へ向かう古くからの官道である西国街道が通っていた)となっていて、更に、港町としても発展していました。尼崎は地の利のせいもあり、戦国時代を中心に幾度も戦乱に巻き込まれてもいて、数多くの武将達が陣地を築き、それを巡って争奪戦が繰り返されました。
 近世以前、戦国時代の尼崎城は、今の尼崎市南城内にある「城内小・中学校」付近を中心として、土塁や石垣、堀を廻らせた「館城」程度の規模であったと考えられています。
 また、尼崎城から北東方向に300〜400メートルの所に大物城という戦国時代初期に築かれた城もありました。当時は、連動した関係があったのでしょうか?

 さて、池田氏と尼崎城の関係ですが、富強で知られた池田家は、戦国時代にあっては、京都の中央政権に関わる有力者の意向も受けて、多くの抗争に参加していました。また、池田氏は時代が降るにつれて着実に勢力を広げているようで、尼崎地域で池田氏の記録も頻度が増えます。
 私の得意なところを抜き出しますと、1507年頃から1531年頃までの細川澄元高国の抗争、1565年(永禄8)10月15日付、本興寺(大物浦若宮のにあったが、現在は尼崎市開明町にある)に掲げられた池田筑後守勝正の禁制、1570年(元亀元)の8月13日に尼崎城に池田勝正が入ったなどと記録があります。他にもあるのですが...。まだまとめきれずにいます。すいません、また次回という事でご容赦下さい。
 また、池田氏家臣から身を興した荒木村重は、織田信長庇護の下、摂津守となって一職支配の役を担いますが、間もなく謀反、そして形勢不利となって滅びます。村重は、本城の有岡城から息子村次の守る尼崎城に逃れ、更に毛利氏を頼ってここから落ち延びたといわれます。荒木氏の家臣には、旧主の池田氏族も多く居たと思われます。具体的な記録はありませんが、他の資料やそれまでの経緯を考えるときっと尼崎にも多くの池田氏族が居た事でしょう。
 これからもこの辺りのことをコツコツと調べていきたいと思います。気長にお待ち下さいね。


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