茨木城跡
The Ibaragicastle of the remains.
茨木城は、その名の通り、摂津の国人である茨木氏によって築かれた城です。最初は館のようなものから次第に拡張されて、城の機能を持つようになったようです。また、茨木氏は室町幕府の御家人として活躍し、一時期の威勢は摂津を中心とした近隣地域では絶大な権力を持っていました。
しかし、その茨木氏も1571年(元亀2)8月28日の白井河原合戦で池田勢に滅ぼされてしまいます。詳しくは、白井河原合戦の項をご参照頂くとして、その合戦の時茨木城も池田方に落とされます。
この城には始め、荒木村重・中川清秀を中心とする一党が入っていたようですが、間もなく清秀に任されたようです。その後清秀は、この茨木城を改修し規模などもそれまでとは違えた事でしょう。なぜなら、中世の城は、落城の度に、規模や防御性などを変化させているものが多く、この茨木城においても、同じような状況が想定できるからです。池田城も同じような経歴を持ちます。
更に後には、片桐且元などが入って再び拡張されたようですが、ここでは、中川時代頃の茨木城について見てみたいと思います。
中川氏は、戦国の時代を生きぬき、江戸時代も家名を保って明治を迎えますが、この中川清秀の時代に抱えた多くの家臣は、清秀時代以降も仕えます。清秀の時代に関わったと思われる家臣名が中川家の記録などに見られ、茨木・池田・安威・粟生・田能村・入江(後に住友財閥の始祖がこの家から出ているようです)など、摂津地域の地名と同名の姓名が見られます。これらは、清秀の池田・茨木時代に抱えた家臣達でしょう。
茨木氏は、お察しの通り白井河原の戦いの後、中川家に引き取ったようです。名族との関連は、何かにつけてプラスに働く事も多かったようですから、政策的な事もあったと思います。
池田氏については、清秀が仕えていた池田家が弱体化したため、力をつけた中川氏に池田氏族が逆に仕えたか、その時期に利害が一致して合同したのだろうと思います。
また、中川氏との関連かどうかはわかりませんが、茨木城地と推定されている域内に「池田口」や「池田方」として字名・小字名が残っている地が有り、大変興味深く感じています。茨木城とはどのような関連があったのでしょうか?
池田と茨木城。今も残る遺物から、その当時を想像してみても面白いのではないでしょうか?茨木城周辺には遺構や碑、旧門(上の写真は、茨木神社に残る搦手門)などがありますし、奈良県大和郡山市小泉にも移築された矢倉門があります。お時間があれば、茨木城を偲ぶ旅に出かけてみてはいかがでしょうか?
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