織田信長画像
The picture of Nobunaga Oda
(天童市三宝寺蔵)
戦国武将織田氏は、越前国の織田劔大明神の神官であった忌部氏の後裔にあたるようです。また、同国では後に守護である朝倉氏と姻戚関係もあったようで「木瓜紋」の使用を許されたと言われています。
ちなみに福井県の織田町では織田氏発祥の地に相応しい様々な文化財が今も数多く残されています。同地の劔神社もそのひとつで、重要な文化財です。
室町初期の応永年間、神官の子(織田姓を名乗るのは後のこと)常昌は、当時尾張国と越前国の守護を兼任していた斯波義重にその才能を見出され、家臣としてとりたてられます。後、尾張国におもむき、そこに土着します。更に後には、尾張国の守護代にまで抜擢されます。この頃に姓を氏祖の生れた所の地名から取り、織田氏を名乗り始めます。
日本史上、あまりにも有名な織田信長はこの守護代の織田氏の分かれで、その分かれが本家をも凌ぐ実力を持つようになります。支流の織田氏は、次第にその勢力が尾張国内だけに止まらず、日本中を席巻するほどになり、今も少なからぬ日本人に影響を与え続けている人物が、その織田氏の信長です。
摂津国の池田氏もこの織田氏とは歴史を辿れば深いかかわりがあります。摂津国池田城を攻められ、落とされた後の池田氏は、その有力な協力者となり畿内を始め、各地を転戦して支えます。短期間にかなりの距離を活動していて、今見ても大変です。この時の摂津池田氏当主は筑後守勝正です。
織田信長の肖像画は何種類か伝わっていて今もしばしば目にしますが、この肖像画はあまり知られていない当時の宣教師が描いたものです。その当時に何点か描かれた中で、一番よく似ていると言われているのがこのスケッチです。これは、織田家に残っていた原本を明治期に撮影して織田家、宮内庁、三宝寺(山形県天童市)に納められたそうですが、現在はその三宝寺のみに残されているそうです。関西では、滋賀県安土町の安土城郭資料館でも見ることができます。
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