高槻城跡
The remains of the Takatsuki castle.
1571年(元亀2)8月28日、当時の多くの記録が語るようにこの日、白井河原の合戦があったことで有名です。摂津池田家当主知正と摂津三守護の和田惟政との戦いで、高槻城主だった惟政とその主だった者はこの戦いで戦死し、勢いに乗った池田勢は、近隣の諸城を攻略します。
記録によると、この時、茨木・宿久・里の城が落ち、更に高槻城も攻囲したとあります。さすがに上位幕臣和田氏の居城は落とさせまいと、救援の手が幕府や織田氏から差し伸べられます。
まず、幕府から奉行衆の三淵藤英が高槻に入り防備を固め、次いで織田家臣佐久間信盛が軍勢を率いて高槻に入ります。更に、幕府から明智光秀が一千の兵を率いて高槻に向けられ、続いて幕府奉行衆が増援されるという念の入れようで、これには摂津池田勢もかなわず、講和を受け入れて高槻城の囲みを解いたようです。
ちなみに、この高槻城攻囲には、悪名高き松永久秀(三好義継も?)も加担していたようです。その頃には早々と古巣の阿波三好家に旗をなびかせていました。この年、久秀は8月4日の大和辰市で大敗しており、それもこういった行動(織田家からの離反)の一端を担った理由かもしれませんね。
さて、いずれにしてもこの白井河原の合戦では、高槻城は落ちず、引き続き和田氏の居城として存続されました。城は戦死した和田惟政に代わって、子の惟長に相続されたようです。
また、この時高槻城が落ちなかったのは迅速な周囲の手当てによるところも大きいようですが、高槻城自体の堅牢さもあったのかもしれません。
十世紀末に近藤忠範が初めに築いたとされる館から発展し、1527年(大永7)の記録に見られる高槻入江城を経て、1571年(元亀2)には和田氏の居城となっていました。城の南には淀川にかけて広大な湿地を持ち、北には西国街道を抱える小丘に立地する平城だったようです。
白井河原合戦の頃の高槻城はさほど大きくないにしても、攻め難い城だったのかもしれません。
惟政の代から子の代に移った高槻城は、その主を惟長の家臣であった高山氏(右近)にとって代わられ、「キリシタンの城下高槻」として名を広めます。
更に後、徳川の世になっても京都・大坂を結ぶ西国街道の重要な押えの地として明治まで栄え、現在に至っています。
<参考>
日本城郭大系12、高槻市史、茨木市史、大阪府史、戦国三好一族、フロイス日本史、紀池田氏研究4、荒木村重研究序説など
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