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<豊臣の世の頃>
本能寺の変を経て、豊臣秀吉が台頭し戦乱の世も大平を迎えつつあった時、北摂では不穏な動きがありました。
塩川・能勢氏はかねてから対立関係にあり、特に1584年(天正12)11月の双方の領内の農民が郡境争いから発展した騒動が更に1586年(天正14)4月、塩川・能勢氏の間で戦闘にまで発展して事態は深刻さを増します。
遂に同年10月、能勢の当主頼次が、秀吉の九州島津氏征伐に従軍隙を見て塩川氏は、能勢氏との年来の抗争を一気に解決しようと能勢領内に攻め込みました。当主が出陣中で兵力の手薄な能勢方は、応戦ままならず降伏します。
頼次はこの知らせを聞くや直ちに自領の能勢に戻りました。これには秀吉も激怒し、直ちに片桐且元・池田輝政・高山右近・堀尾吉晴を差し向け、塩川氏の居城山下城を囲み攻撃しました。この時の塩川氏当主国満は、勝算のない事を悟り切腹して果てました。その首は山下城の東大手口に葬られたといいます。
また、多田銀山に注目していた豊臣秀吉は直轄領とするための策だったという説もあります。
少し話しが長くなってしまいましたが、秀吉の命を受けた片桐らの軍勢は池田に陣を置いて討伐に向いました。やはり要衝である池田は、この時にも利用されたようです。
さて様子はといいますと、片桐且元は七千を引き連れて止々呂美城へ、池田輝政は三千を萩原越えで広根から銀山に至り布陣、能勢頼次・高山右近・堀尾吉晴ら五千は直接山下へ向い囲みました。1586年(天正14)12月14日に山下城は開城し、国満は切腹して果てます。
時期が時期だけに、塩川氏にとっては厳しい制裁となってしまいました。中世から近世にかけて、社会的に土地や地域というのは大変生活に近かったために、このような境界争いも多かったようです。
塩川氏も予想外に騒ぎが大きくなり、不本意な事だったのかも知れません。
その他池田城の関連で気になるのは、直接池田城と名が出ているわけではないのですが、穴織宮拾要記(末)の記録によると、1595年(文禄4)10月20日の夜、放火によって池田の町がほぼ全域焼亡するという事件があり、同じ年の7月に起きた秀次事件と何か関係があるのかどうかわかりません。「放火」とは何か気になるところです。池田の町(城下町)は池田家の元家臣が多く住んでいた所(戦乱後再び戻り住みついていた)でも有り、そこを町全体が焼ける程の放火をしているので気になっています。しかし、気にし過ぎかもしれません。