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<村重が摂津を支配した頃>
荒木村重は、織田信長から、摂津国支配を任され、急速に国内掌握を進めます。
そして、1574年(天正2)11月頃に伊丹城を落し、荒木村重は伊丹に城を移して目的に応じた再編を行いました。村重は、伊丹に城を移すまでは、池田城を中心として活動していたようです。
同年2月、有名なキリスト教宣教師のルイス・フロイスが、池田城に村重を訪ねています。
村重は、天正3年頃まで摂津国内をほぼ統一して、織田信長の期待に応えているようです。
織田信長は、自領内の東部に強敵を迎えており、これらの対応に手いっぱいで、摂津国から西へは手つかずの状態でした。
この頃、摂津国の西の最有力勢力毛利家では、更に足利義昭をも迎えて幕府再興に協力して、日本国内への影響力を持つ勢力になりつつありました。
この事態に、村重は織田政権の存亡を左右する重要な役割を担って、休む暇もなく働いていました。
摂津国は、海を持ち大動脈である西国街道も通している事から、京都にとっての絶対防衛圏でした。また、摂津国は、河内・和泉・播磨・丹波国と直接に国境を接し、海をはさんで、淡路・讃岐国とも接する重要な場所で、西国と呼ばれる地域への玄関口ともいえる要衝でした。
それ故に、織田政権にとって摂津国は、京都の支配にとって欠く事のできない地域でした。視点を変えてみると、摂津国を統一した村重にとっては、天正3年頃は、周辺は敵ばかりで、一瞬たりとも気が抜けない、緊張状態が続いていました。
そんな状況の中で、村重が摂津国を急速に統一するのですが、その過程で、近世的概念を取り込んで、各地で再編を行っています。
中でも、城と都市の関係を再編し、新たな時代に対応した概念を体現させています。これは、織田政権の方針でもあったようですが、村重はそれに地域の特性を考慮して、独自の工夫をしたようです。
村重は摂津国の拠点を定め、そこに重点的な投資を行って、整備を行ったようです。それによって、相互の補完関係も構築され、後詰めなども適宜に行える、摂津国全体を視野に入れた城郭整備を行っている事がわかります。
中世から近世への時代の変わり目にあって、大量・急速・大規模化が常態化する社会に、都市と城のあり方を根本から考え直す事が迫られていた村重は、自身を育んだ池田を離れ、伊丹に新たな拠点構築を決心しました。
天正3年4月頃までに村重は、伊丹を摂津国の守護所として、新たな国内統治体制を完成(実際には天正3年秋頃)させています。
主たる拠点としては、伊丹を初めとして、兵庫・花熊・西宮・尼崎・大和田・中嶋・吹田・郡山・茨木・高槻・余野・山辺・一庫・池田が見られます。また、それら以外にも地域の有力者が大小の城館を整備しており、拠点との連携を行っていたようです。
村重は、これらの体制を以って摂津国全体を一つの要塞と捉え、周辺からの軍事進攻に備えたと思われます。
この事は、織田家領内でも、摂津国内が特に念入りに体制の再編が行われているらしく、その重要度の高さがうかがえます。