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<池田家が摂津守護となった頃>
時代が下るにつれ城域は、次第に拡張されます。戦国時代も末期の1568(永禄11)年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長はいっきに摂津へ侵攻します。この時も池田氏当主の筑後守勝正は、他の多くの武将が軍門に降る中、三好三人衆側の武将として池田城をたのんで抗戦に出ます。しかし、織田軍の総攻撃を受けて抗しきれず降伏を余儀なくされます。勝正は人質を入れ和議を申し入れています。
しかし、織田信長・足利義昭は池田氏の旧領を安堵し、更に加増します。その後池田氏は幕府方摂津守護として各地を転戦させられる事になります。
この時池田城は、幕府の守護所の一つとして防御力強化のための改修が、織田政権の指導の下城の一部石垣作りなどを行なったのではないかとの説があります。池田城の石垣の形式は、京都府長岡京市の勝龍寺城にも似た形式が使われています。このことから、織田信長との関係説が有力となっているものです。
織田信長勢の傘下に属した摂津池田家はまたも試練を強いられました。間もなく、池田城内で内訌が起きます。1570年(元亀元)の越前朝倉攻めの負け戦(勝正は木下秀吉、明智光秀と共に金ヶ崎城に残っていたようです。有名な決死の退却戦「金ヶ崎の退き口」に参加していたのか!?)から戻った矢先の事で有力家臣であった荒木村重、中川清秀等によって当主の池田筑後守勝正は追放されます。
一旦、刀根山から大坂を経て河内国方面へ落ちたようですが、危急を知った織田軍は細川藤孝・和田惟政等を池田城方面へ差し向け有事に備えさせます。間もなく、猪名寺(兵庫県尼崎市)の戦いで、伊丹氏に協力した池田勝正等と三好氏に加担した摂津池田氏と小競り合いとなります。
その後、野田・福島方面の戦闘が激しくなり、主戦場が移ったため、約1年間程池田の事は記録に登場しませんが、1571年(元亀2)8月、細川藤孝が、池田勝正を伴って池田城を攻撃します。
しかし、城は落ちず、藤孝は勝正を池田城から2里程(約8キロ)南の原田城に入れて、兵を引きます。
ほどなく、白井河原(大阪府茨木市)の戦いが、池田家と和田氏との間で起こり、三好三人衆方池田勢が、幕臣でもある和田惟政を討ち取る動きを見せます。
この時、茨木城を始めとして、里城、宿久城を落として、高槻城までも抜こうと攻囲中に、織田・足利勢の鎮圧軍(主に幕府から)が到着して、池田勢は囲みを解きます。
それから、記録にはありませんが、郡山城など周辺の小城は多くがこの時落とされたのではないかと思います。
その後、茨木城には、荒木村重(一説には荒木新五郎(荒木志摩守卜清の次男とも伝わる)が城主となって入ると有り)・中川清秀が入ります。