金ヶ崎城跡
The ruins of the Kanagasaki castle.
越前国金ヶ崎城は、天筒山の北西端にあり、海に突き出た部分にある城で、天筒山城と一体化した城です。同城は、標高も高い天筒山城とは峰づたいに繋がっており、天筒山城の付随的な城とも考えられるかもしれません。
また、金ヶ崎城は、現在の敦賀市内北東部にあり、その敦賀は、古代から中央政権とのつながりを深く持つ地域でもあった事から、その要衝めぐって度々戦いがありました。そしてまた、敦賀は港を持ち、日本海側の主要港でもありました。そのため、時代を経るにつれて、その地を守るための城が、整備されるようになっていました。 金ヶ崎城の名を一躍知らしめたのは、建武3年(1336)10月、新田義貞などが金ヶ崎城に篭って繰り広げた、足利尊氏勢との合戦です。 更にその後、観応2年(1351)8月、足利尊氏から離反した足利直義が、金ヶ崎城に拠って反旗を翻し、長禄3年(1459)5月、越前守護斯波義敏とその重臣の甲斐常治の抗争で、甲斐常治が金ヶ崎に拠っています。
また、敦賀は、若狭・近江・越前国からの主要道を集める位置にあり、更に海上交通の要港で、金ヶ崎城そのものも要害である上に、天筒山城と一体となって要塞化した巨大な軍事・政治施設となっていました。
そんな環境から年々施設と設備が拡張されていたいと考えられます。また、山の形状もありますが、近江国安土郡の観音寺城と同じ様な構えにもなっていて、市街に対して三方から囲む様なカタチになっています。また、天筒山城は、ヒトデのように尾根が八方に延び、各々に軍事的設備を施して防禦を図っていたようです。
更に天筒山からは全方向に視界が開けており、西の若狭国境、北東の木ノ芽峠など、主要な場所への連絡も可能です。
また、西側から攻められた場合の補給は、天筒山山塊の北にある田結の浜まで海上輸送するか、街道を使うかですが、いずれにしても城の後背から受ける事ができれば、山全体が越前国への防禦の「楯」のような役割を果たす事でしょう。
参考:日本城郭体系11、福井県史、敦賀市史、朝倉義景(人物叢書)、 明智光秀(人物叢書)、言継卿記4、朝倉始末記、
織田信長文書の研究、多聞院日記など
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