白井河原古戦場
The battleground remains of the Shirai riverbed in Ibaragi city ,Osaka
元亀元年(1570)6月に摂津守護職を担う池田家中で内訌が起き、当主池田筑後守勝正を追った後、池田家中の人々は、幕府の重要人物であり、高槻城主で摂津守護職の和田伊賀守惟政に決戦を挑みます。
元亀2年8月28日、池田衆と和田方は、白井河原で大合戦となります。池田方の総勢約3,000に対して、和田勢と合戦に及び、和田惟政以下有力家臣が悉く討取られて、和田方には致命的な敗戦となりました。この時、和田惟政は急遽手勢をかき集めて出陣しましたが、その総勢は200程しか無く、後から高槻城を出た惟政の息子惟長などの軍勢は700程を率いて急行しました。
多分、決戦場近くに合流する手はずだったと思うのですが、惟長が到着する頃には父親の惟政以下主立った人物がほとんど全滅状態であったため、高槻城に引き返しました。そして、その敗戦の報が広まるや、味方武将もちりじりに逃げてしまったようです。
この合戦では、この頃池田家中での有力者に成長していた荒木村重や主立った武将の一人であった中川清秀が活躍し、一躍世に知られるところとなったようです。
この頃の池田衆は当時の史料を見て行くと、当主という家の代表を立てず、三好三人衆という例に習う様に、池田四人衆を再編した三人体制で家中の政治を束ねていたようです。
この白井河原合戦では、その3名が概ね1,000名ずつを率いていたらしく、それを巧みに運用して和田勢を見事に打ち負かしました。
千里丘陵の北東端の地形と川や独立丘陵などをうまく利用して、池田衆は決戦に挑んだようです。また、池田衆は300挺の鉄砲を用い、山あいに伏兵などを配して戦ったとの記述もあり、周到な作戦を立てていたようです。
この合戦の勝利を機に池田衆は、千里丘陵から東側の嶋上郡にも勢力を拡大させ、歴代最大の版図を得る事となりました。
<参考>
(新)茨木市史、高槻市史、言継卿記、多聞院日記、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、陰徳太平記など
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