山城国勝竜寺城
The Syoryuji castle.
勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流点付近に位置し、西国街道と久我畷とを同時に押さえることのできる交通上の要衝でした。勝竜寺城は、槙嶋城、山崎城と共に京都防衛上の拠点でした。同城についての文章上の初見は、1470年、「上久世荘宛て」の「融薫の書簡」が最初のようで、以後戦国時代終結まで度々文章に登場しています。1470年当時は、山城守護畠山義就が付近の郡代役所として同城を築城したとされています。
時代は下って「永録九年記」では、1566年(永禄9)七月十七日の条に「(前略)小竜寺は、岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々」とあって、戦国時代末期には、松永久秀・三好三人衆の属城になっていたことがうかがえます。1568年(永禄11)、織田信長の勢力が京都へ伸びた時、反信長勢力である三好三人衆のひとり、石成通友通が勝竜寺城を守備していました。しかし同城は、付近の城も含めたちまち攻め落されます。
ちなみにその翌年(永禄12)正月5日に京都本國寺に足利義昭将軍が三好勢に囲まれた時、摂河の幕府・織田勢はその救援に駆付け、勝竜寺城から近い桂川から東寺あたりで戦闘になっています。残念ながら、この時池田勝正率いる池田勢は桂川で敗退(後詰めの池田勢は活躍)したようです。全体としては勝利しています。
しかし、「言継卿記」という古文書には、同月8日の事として、三好義継・細川藤孝らと共に勝正が勝竜寺城へ帰陣した事を記録しています。
定説にもなっている「勝正の敵前逃亡説」は、実のところ作り話かもしれないと個人的には感じています。逃げたのに、細川藤孝といった煌めく時の人物と行動を共にできるでしょうか?
さて、その後、織田信長は細川藤孝を同城に入城させて、同時に乙訓郡及び葛野郡を「一職進退」として支配を委任しました。当時の地理的状況から、勝竜寺城・槙嶋城は山城支配の前衛基地として大きな役割を担っていましたが、藤孝が1581年(天正9)に丹後に移封し、その後の「本能寺の変」に付帯する山崎の戦いで落城してからは廃城となりました。
1890年(明治23)の測量結果や1979年(昭和54)の発掘調査によって築城当初の状況が明らかになりました。東西125m×南北95mの長方形状をしていて、堀の幅は約20mだったことがわかっています。現在、勝竜寺城は当時の遺構が復元されて公園になっています。勝竜寺城跡は、JR神足駅から南へ600mです。興味のある方は是非どうぞ。
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