見出し:池田氏関係の図録
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写真:摂津国川辺郡伊奈寺廃寺伊奈寺廃寺
The remains of Inatemple

伊奈寺廃寺の寺域はまだ定かではありませんが、その中心部と思われる所にこの法園寺があります。このお寺の裏に「伊奈寺廃寺」の石碑とかつての寺の柱を支えていたと思われる巨大な礎石があります。近くに立ててある尼崎教育委員会の説明板には、「伽藍は法隆寺式で、塔と金堂が東西に並び、これを中門から出る回廊が囲み、講堂がその北側に配されています。(中略)出土した遺物の大半は瓦類で、白鳳時代〜室町時代に渡っています。特に白鳳時代の軒瓦は、川原寺形式と呼ばれているものです。(中略)伽藍は天正6〜7年(1577〜)の荒木村重と織田信長の合戦の際に焼失したものと思われます。」と記されています。

 この由緒ある伊奈寺の跡地は、高台になっていて猪名川から分岐した藻川の氾濫の影響も少ない所ですし、伊丹から尼崎に通じる街道の要衝でもあります。今も古い道と町並みを残しています。ここに砦があった事が「細川両家記」「川辺郡誌」などに取り上げられています。集落を守るため、地勢条件的にもあっておかしくない所です。

 1570年8月13日、尼崎から上陸し北上してきた三好方安宅信康勢が伊丹城を攻撃します。伊丹方は伊丹親興が百名程を引き連れて出撃し、この伊奈寺付近で三好勢と戦ったと記録にあります。城方に四・五名の戦死者を出しましたが、三好方を撃退します。
 この時、摂津池田知正勢(城方)も信康勢と呼応して伊丹城を攻めていますが、状況から考えると三好方知正勢は、伊丹城の東側から攻めて、高畑村付近で交戦したと考えられます。
 この合戦は、上洛を狙う三好方の示威行動で大きな衝突ではなかったようです。遊撃してきた三好勢はその後、野田・福島(大阪市)に陣取る三好三人衆勢と合流します。

 この時、伊奈寺砦があったかどうかはわかりませんが、あれば何らかの利用はしていた事でしょうね。また、他の歴史関連書籍では、この合戦に池田勝正も出陣したとありますが、記録上からはそれが認められません。記録に出てくる「池田衆」とは、勝正と敵対する三好方池田衆の事で、これを勝正と混同していると思われます。
 勝正はこの時、摂津吹田城(前月上旬に幕府・織田方が落とした)に入っていたのだろうと、個人的な想定をしています。

参考:兵庫県史3、伊丹市史2、川西市史2、尼崎市史2、宝塚市史2、
池田市史(史料編1)、言継卿記4、日本城郭全集9、戦国合戦大事典6、
荒木村重研究序説など


2003年9月13日:記


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