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<防備施設の事>
鉄砲の実戦使用で、その対策が城にも凝らされていた事は十分に想像できます。1550年(天文19)2月、細川晴元に加担する将軍義晴は、細川氏綱方三好長慶勢の攻撃に備えて、京都慈照寺(銀閣寺)裏山に中尾城を築く工事を行っています。
この時、三重に堀を掘り、二重に壁をつけて、更にその壁の中には石を入れて鉄砲に備えています。
畿内では、鉄砲の導入が早く、戦争の仕方にも、また、社会も変化を余儀無くされ、池田城も好むと好まざるとに関わらず、その変化に呑まれていったのかもしれません。
個人的な想いは別として、権利と自由は自分の実力で勝ち取らなければならない戦国時代、自分自身の財産や命を守る事も常時気遣わなければならない時代です。実用的な方法、科学的な事物は全ての人々や場所で、往々にして理解の基準となっていたことでしょう。
こんな記述もあります。宣教師ルイス・フロイスの記録(日本史第一部六十章)の中に、1565年(永禄8)4月頃の事として、大和国奈良興福寺の様子が記されています。その記述の中に、「。石灰で上塗りした非常に堅固な粘土壁で囲まれ、...」とあり、この頃にはこのような技術で、建築物が建てられていたようです。フロイスの記述は、漆喰壁の事と思われますが、この技術は、見た目の事もあるようですが、風雨や火災にも強く、実用的な用いられ方をしていました。
やはり、こういった良い技術や道具は、池田城郭内の施設の中にも採り入れられていた事でしょう。残念ながら、発掘ではこういった関連の遺構は検出されていませんが、発掘されていない場所で存在している可能性も無くは無いでしょう。
また、こういった建築資材は、全て再利用が可能で、柱・瓦などは転用されて残らず、壁土は残されたとしても遺物としての検出は難しいため、確認(認識)されていないのかもしれません。それから、壁土自体の再利用も可能なため、これも他へ転用された可能性はないとは言えません。
考え過ぎかもしれませんが、池田城は、池田筑後守勝正の時代には、将軍義昭政権内での摂津の守護所として機能しており、地位や立場的な事を考えても、建築物にもそれなりの権威付けがされていた事が考えられます。
さて、「江源武鑑」という資料では、永禄11年秋に織田信長が足利義昭を奉じて上洛戦を展開した時の池田合戦について記述が見られます。
「(前略)同日申剋江陽七手組衆池田城へ攻寄此城ニハ三好笑岩(康長)カ旗奉行ニ池田筑後守千五百騎ニテタテ籠タル南ノ口ヘ足軽ヲ出シ防ク處ニ落合カ手ヘ池田カ足軽大将高山門内ト云者ヲ打取申剋ヨリ酉剋ニ至テ合戦有リテ池田筑後守人質五人ヲ出シ降参ス(後略)」
文中に見える「南ノ口」について、「池田城跡(主郭の調査)」や「北摂池田(町並調査報告書)」といった調査では、池田のまち全体を囲むような施設があり、それに伴う出入口があった可能性を示しています。その最南端の防備施設(堀のようなもの)としての出入口が「南ノ口」であったようです。
この付近には今も五輪塔(地元ではお地蔵さんとして祀られている)が多く残ります。また、池田一族の菩提寺である大広寺とは別に武士を葬る寺があり、その寺は戦国時代に焼かれて廃寺になったとも伝承があります。
永禄11年秋の池田合戦では、寄せ手の織田勢は、実際に火を放っているようですので、その事とも一致する点があります。
また、池田城の構造上、南東部が弱点とされていますので、「江源武鑑」の伝承は、全く的外れでは無いようにも思えます。
まもなく、織田信長政権に加担した荒木村重が、摂津国の一職支配者となって、その本拠を伊丹へ移す事になりますが、その際、池田城の資材も転用されているらしい事から、池田城跡発掘時には、遺構・遺物検出が少なくなっているようです。
いずれにしても、時代的な背景や当時(天文年間から元亀年間頃)の摂津池田家の経済力や政治的な立場から考えて、摂津国内でも規模が大きく、先進的な技術を採り入れた城だった事は、十分に可能性を持つと思われます。