中川清秀由緒地
The histric monument for the nakagawa family.
大阪府茨木市教育委員会により写真のような石碑が建てられています。場所は、茨木市中河原町です。近くには新屋神社があり、坐天照御魂神社(にいやあまてるみたま)という神社があって、清秀が白井河原の戦いで使用した短刀が奉納されています。これはキリシタン武将・幕臣の和田伊賀守惟政を討ち取った刀だと伝わっています。残念ながらこの刀短は非公開です。
ちなみに、その神社で頂いた由緒書き(刀の写真)によると、ちょっと昔のヤクザ映画「仁義なき戦い」に出てきそうな「長ドス」といった感じです。短刀にしては長いものです。
天正年間頃、清秀がこの新屋神社を氏神として崇拝し、以後、江戸時代になっても(九州の竹田城城主として藩籍奉還を迎える)中川家から崇拝されていたそうです。
さて、この中川清秀由緒の地に行くと教育委員会による説明板も建てられていて、要約すると、中川清秀は中川佐渡守重清(他に兵庫県三田市下深田の稲田城主説も有り)の長男として生まれましたが、その場所は詳しくわかってないようです。
しかし、この摂津島下郡中川原と書かれた古文書がある事からこのあたりが、由緒の地の可能性が高いと推定されているようです。清秀は幼少の頃から軍学を学び、白井河原での活躍をきっかけに頭角を現わし、後に茨木城主となった。とあります。
清秀は池田家の家臣で、荒木村重と共に池田家中で活躍をしていたようです。その家臣の清秀が、池田城よりも10キロ程東の地に所領(?)を持っていたと言う事は、池田氏の勢力範囲がかなり広かった事が伺えます。白井河原古戦場は、この中川清秀由緒の地から1キロ足らず東の所です。
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