池田一族連署状
The joint sign note by Ikeda family.
(個人蔵)
元の史料は横に長い書状なのですが、入りきらないので、2段にしてあります。
元亀元年と推定されているこの「池田一族連署状」は、小河出羽守家綱を筆頭に、池田二十一人衆とされる主だった池田氏一族衆が署名しています。この時、署名中にある池田清貧斎(せいとんさい)は、摂津池田家で主導的立場でしたが、茶人としても活躍し、また、平野(現大阪市平野区)に庵を持っていたようです。
清貧は、1569年(永録12)1月の三好三人衆による京都将軍義昭居所の襲撃には、懸け付けた池田衆など幕府軍の後巻として出陣、的確な判断による行動を信長から賞賛されています。ちなみに、池田勘介正次(行カ)は、後に紀伊守を名乗っているらしい事から、清貧斎の嫡子の可能性もあるかもしれません。
また、この連署状中には荒木村重や中川清秀の名前も見られます。この時、村重は「池田」の姓で署名されており一族扱いだった事が注目されています。
以下は、上記連署状の内容です。(画像上段の右から左へ、更に下段へ順に。)
湯山之儀随分馳走可申候 聊不存疎意候恐々謹言 小河出羽守家綱(花押) 六月廿四日
清貧斎 一狐(花押) 池田(荒木)信濃守村重(花押) 池田太夫右衛門尉正良(花押) 荒木志摩守卜清(花押) 荒木若狭守宗和(花押) 神田才右衛門尉景次(花押) 池田一郎兵衛正慶(花押) 高野源之丞一盛(花押) 池田賢物丞正遠(花押) 池田蔵人正敦(花押) 安井出雲守正房(花押) 藤井権大夫敦秀(花押) 行田市介賢忠(花押) 中河清兵衛尉清秀(花押) 藤田橘介重綱(花押) 瓦林加介■■(花押) 菅野助大夫宗清(花押) 池田勘介正次(行カ)(花押) 宇保彦丞兼家(花押)
湯山年寄中参
余談ながら、最近、この分野へも思考が巡らされるようになりましたが、個人的にこの史料は元亀2年のものと今のところ考えています。その理由の詳しくは「内訌直後の池田家当主」をご覧下さい。
個人的には、この史料を以て、二十一人衆の存在を裏付けられるものにはなっていないと考えています。
どなたかの定義の順送りで、その後の精査がされておらず、二十一人衆という呼称自体も制度があった事を史料から裏付けができません。平家臣と区別した重臣集団、また、四人衆との区別として便宜的に用いられた呼称と考えられます。史料としても『言継卿記』「二十一人衆」と1回、『多聞院日記』に「三十六人衆」と1回だけ見られる程度です。連署史料もこの1点のみです。
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