石山本願寺城跡
The remains of the Ishiyama-Honganji castle.
歴史の好きな方なら石山本願寺の事はよくご存知だと思います。また、学校でも習いますので、歴史に興味なくても聞いた事があるという方は多いのではないでしょうか?ちなみに本願寺信徒は、一向衆とも呼ばれ、江戸時代には西本願寺となり、それが今も続いています。
それから石山本願寺というのは、石山(大坂)地域にあった総本山という意味で、時代によってその場所は異なります。石山の前は山城(京都)の山科に本山があったので山科本願寺と呼ばれていました。
少し山科時代の事を触れると、天文年間(1532〜1555)頃、守護や管領が争う中央の抗争が激化し、近隣の有力国人・豪族など加えて宗教勢力までもが加担し、世は乱れに乱れていました。血で血を洗う宗教戦争(こういいきるのは難ありかもしれません)が繰り広げられました。摂津池田家もこの大きな波に飲み込まれていきます。また、池田領内にも本願寺勢力があり、複雑な状況になっていたようです。
一面には教育など、学問を身につけるための機関としても受け入れられていたのではないかとも考えられます。
さて、1532年(天文元)本願寺は山科から石山へ寺基を移して本願寺とします。しかし、1496年(明応5)から石山には既に御坊があってこの天文の頃には、大規模な施設になっていたようです。また、証如は既に石山に居たようです。1533年(天文2)7月25日には祖像が、石山に入りこの時、正式に本願寺として体裁が整ったと考えられているようです。
さらに相次ぐ戦乱で、宗教施設である石山本願寺も防御機能を備え、戦う事も可能にしていました。この証如の時代には既に、摂州第一の名城と謳われる程の要害堅牢ぶりで、寺内町も大いに発達していました。天文初年には、清水町・北町・西町・南町屋・北町屋・新屋敷の六町を数え、その後も発展を続けて、最盛期には十町の町並が賑わっていたようです。また、証如はこれらに領主権を持ち、掌握していました。
本願寺派は、各地にこのような寺内町を築き、その頂点に立つことから強力な戦国大名にも匹敵する独立王国ともいえる勢力になっていました。石山だけでもかなりのもので、これだけでも戦国大名といえるのかも知れません。また、イエズス会パードレ・ビレラの手紙に「日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」と書かれているほど強大にして広大なものでした。
そしてご存知のように、本願寺は1570年9月の蜂起から10年に渡って抵抗しましたが、結局は織田信長に屈して、石山から退き、その後時代が下って豊臣秀吉、徳川家康が次々とここに大城郭を築いた事から、その遺構は破壊されてしまっています。
少しだけ、その石山本願寺城についてですが、結局は堅牢な城は武力によって落ちる事はありませんでした。本城には柵や逆茂木を五重に巡らし、惣堀や櫓を建て廻らせて鉄砲隊を配置するなどの堅牢さでした。また51ヶ所とも言われる支城を周辺の要所に構えていました。
参考: 兵庫県史、岡山県史、大阪府史、
和歌山県史、大阪市史、織田信長文書の研究、
信長公記、本願寺日記、日本城郭大系12など
│サイトトップへ│
|