此隅城跡
The ruins of the Konusumi castle
兵庫県出石郡出石町宮内にある此隅城跡です。ここも摂津池田氏の関係する城です。標高140メートルの独立した山に当時城がありました。写真では中央部分の山です。頂上には南北40メートル、東西10メートルの長方形の城郭跡が残っています。また、尾根づたいに郭跡も数カ所残っています。
さて、「出石町」とはあの出石そばや時計櫓の辰鼓楼で有名な出石町です。関西では有名な観光地ですからご存じの方も多いと思います。
その辰鼓楼の南に出石城跡があって、近世にはここを中心として出石地方が栄えていました。小出吉英五万石の城下町でした。
しかし、それ以前の中世、この地方で威勢を誇っていた山名氏は、此隅城に本拠を置いて但馬を中心として11ヶ国の守護を務めました。六分一殿と称される程、広大な地域を一族で支配していました。応仁の乱で活躍した山名宗全(持豊)は有名ですね。
時代が下るにつれて、やはり「盛者必衰」を実践する形となり、内訌・争乱を経て次第に家勢も衰えました。1484年(文明16)の赤松氏と山名氏の戦闘は長期に及んで結局は得るところなく、山名氏は急速に弱体化していきました。
それで、やっと本題ですが、1569年(永禄12)8月1日から始まった、織田氏の但馬侵攻は、この山名氏本城である此隅城を目指したものでした。総勢2万という軍兵の中に摂津池田勝正の姿もありました。きっと荒木村重も池田家の有力家臣として従軍していた事でしょう。そして対する山名家当主は、祐豊でした。
この出兵は、毛利氏の要請によるもので、毛利家が敵対する尼子家を牽制する目的で尼子家背後の山名家を滅ぼす事で、逆に尼子家を圧迫しようとするためでした。この僅か2週間程の作戦行動で、生野城や竹田城など18の城を落とし、此隅城も落として、山名家の但馬支配は実質的に幕引きとなりました。
ちなみに山名祐豊は堺に亡命し、茶でも有名な敏腕商人今井宗久の金銭的支援と口利きで但馬に帰り咲きますが、後に再度攻められ、遂に滅びてしまします。
この頃の勝正は、織田家の下臣となったものの、それなりの役目を果たし、ある程度充実したものだったのではないでしょうか。個人的な感想ですが、この頃勝正ら摂津衆(織田家に降った)が参加した戦は、全て勝ち戦でしたので、そんな気分になっていたのではないでしょうか、やはり。
それにしても、池田市から出石町まで車で行っても遠い(約150キロメートル)のに、人馬の移動力で、なおかつ2万人もの軍勢を引き連れて戦国時代によく行ったものだと思います。
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