見出し:池田氏関係の図録
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写真:播磨庄山城跡庄山城跡
The ruins of the Syoyama castle.

1569年8月下旬、織田信長は毛利家からの要請で、約2万の軍勢を播磨西部に送っていました。木下助右衛門尉、木下定利、福島正則を大将とした編成で、その中には池田筑後守勝正、別所長治も従軍していました。浦上領まで、道々諸城を落としながらの進軍だったようです。示威行動の意味合いが強かったようです。
 但馬の侵攻と同じく毛利家からの要請に応じた進撃だったので、検使役として朝日山日乗という僧が随行していて、その記録の中に、池田氏の記録も残されています。
 その記録「益田家什書」では、「播磨に入って増井・地蔵院の両城をはじめとして、大塩・高砂・庄山と合わせて5城を落とし、現在は庄山城に在陣中である。塩置・御着・曽禰の三城については城主に降伏を勧めているところで、きっとうまくいくだろうから安心されるように。(後略)」という内容が書かれています。この庄山城あたりで浦上・宇喜田軍と対峙したまま膠着したようです。

 城郭の本を読むと、どれも庄山城は、兵庫県夢前町と書かれているのですが、前述の記録にもあるように、塩置・御着・曽禰を説得中であれば兵庫県夢前町までは進めないと思います。と言う事はやはり、庄山城は姫路市飾東町庄にある庄山城だろうと思います。違うかな?写真はその飾東町の庄山城です。
 日本城郭大系12の庄山城の項には「(前略)標高194メートル、岩石の露出したところが多く、東・西とも急峻で、南方に深い谷がある。軍勢は、ここから繰り出し、また引き入れたのであろう。山上の眺望はまことに良い。眼下の丹波街道から南方へ広がる市川左岸の平野まで、手に取るように眺められるし、山陽道も余すところなく見える。(後略)」とあります。また、この城は、赤松貞範が1349年(貞和5(正平4とも))に築いた城とされています。
 縄張りは、東西500メートルにわたって連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に、左右両翼に張り出した尾根と南に伸びる支脈を利用して諸郭を配しているようです。山頂から山腹にかけて石垣、土塁、掘切2本、井戸2基、城戸跡などが残っているそうです。
 行ったついでに是非、見たいと思っていたのですが、梺にある城山中学で聞いてみると、上に上がるには1時間程かかるとのことで、34度程あった気温の事もあって次に譲ることにしました。こんな岩山に井戸があるのも興味深いので涼しくなったら登山に挑戦するつもりです。たった194メートルですが、見た感じは、もっとありそうですよねえ。

 いつもいつも思いますが、ここも大阪から約100キロ程の所です。人馬でよくここまで来るなあと思います。気侭に歩くのではなく、2万もの集団行動ですから。池田家の勝正はどんな思いでここまで来たのでしょうか?現場に立つと色んな思いが巡ります。


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