播磨刀田山鶴林寺
The Kakurin-ji temple.
刀田山鶴林寺(現加古川市加古川町北在家)は、昔で言う播磨国の内にあり、また、聖徳太子に深い縁りを持つ古刹です。その興りは589年(崇俊天皇2)という大変古いお寺です。鶴林寺は、鎌倉・室町時代と太子信仰の高まりと共にその全盛期を迎えて、寺坊30数カ坊と寺領25,000石を有していたそうです。しかし、江戸時代の厳しい宗教政策で次第に衰微した模様ですが、「刀田の太子さん」「播磨の法隆寺」等と呼ばれて、今も多くの人が集います。
そんな鶴林寺に、摂津守護池田筑後守勝正が禁制を下しています。この禁制は、「正月」付けで、三ヶ条から成る一般的な内容のものですが、しかし、なぜ摂津守護とはいえ、播磨国内の寺に禁制を下したのでしょうか?その経緯は今のところわかりませんが、禁制は需要と供給の関係があるものですので、因果関係があるのは確実です。
その事を考えてみると、摂津池田には、西国街道・有馬街道が通っており、この内有馬街道は摂津湯山(現神戸市北区有馬)・播磨三木(現兵庫県三木市)方面へ至る主要道があり、室町時代の末期も大変利用率の高い道路がありました。この有馬街道を使えば、実は播磨加古川方面も、そう遠くはありませんでした。
そのため室町幕府の摂津守護職となった池田家は、それまで培った地域的・経済的等の繋がりから、播磨方面の担当をしていたのではないかと個人的には考えています。また、1570年(元亀元)6月に、池田家当主である筑後守勝正は、内訌を起して追放となってしまいますが、その後の池田家の主導的立場となった荒木村重は、同じく織田信長政権下で播磨方面を担当しています。この事は偶然では無く、やはり理由があっての事でしょう。
この鶴林寺は、戦災・災害の被害をほとんど受けておらず、時代が残した文化財の宝庫でもあります。国宝や重要文化財があたりまえのようにゴロゴロとあります。各々一見の価値はあります。これらの文化財は当時の筑後守勝正や村重も同じものを見ていた筈で、それを考えると感慨深く、何とも言えない気持ちになります。
※関連サイト:刀田山鶴林寺公式ホームページ
参考:兵庫県史(史料編・中世2)、加古川市史、
兵庫県の地名2、鶴林寺発行の資料など
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