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<荒木村重が本拠を池田から伊丹へ移した理由>
荒木村重は、織田信長政権に活路を見い出して接近します。信長も京都周辺地域を安定させる事に大きな課題を抱えていた事から、村重一党を歓迎し、その援護を行いました。
村重はまず、分断されていた摂津池田家中をまとめる事を手掛け、これを成功させます。
そして元々持っていた池田家の組織力と影響力を利用して、摂津国内の有力豪族を取り込み、また、抵抗する者はこれを制圧して、摂津国内を信長方へと主導していきました。
有馬・能勢・塩川・茨木・三宅・安威・和田など有力国人や勢力を次々とその影響下に収め、最有力の国人であり、足利義昭政権下では、池田家と同じく摂津守護を務めた伊丹兵庫頭忠親を遂に壊滅させます。
1574(天正2)年11月15日に摂津国伊丹城は開城となり、村重はこれを以って事実的な国の一職支配者となったようです。その翌年8月頃から摂津国の一職支配者として「摂津守」を公称し始めます。
さて、「村重がなぜ摂津国内支配の本拠を伊丹に置いたか」ですが、これは当時の軍事的環境から考えて、その主たる目的は、大坂本願寺を意識したためのようです。
1576(天正4)7月13日、摂津国木津川口で足利義昭方毛利輝元方の水軍と信長方水軍が大海戦を行いますが、これより以前に信長は瀬戸内海の海路封鎖を行い、また、陸上通路の封鎖も行っています。これは、大坂湾岸の要地であり、京都とも直結する川沿いに拠点を構えていた大坂本願寺に対する措置です。
また、伊丹方面の通路の封鎖については、1571(元亀2)年と推定されている(北国・大坂通路留を命じた信長朱印状(元亀の争乱の新史料))信長から伊丹忠親に指示された内容を見ても、既に組織的な対応が行われており、伊丹の地理的な位置付けがよく解ります。
信長は、大坂本願寺に備えさせるため、村重に様々な方策を実行させていたようです。村重は、池田城を中心として様々な政治・軍事活動を行っていましたが、池田からは海が遠く、時の状況に対応する事ができません。そのため村重は、何としても海に近く、西国街道を始めとした、西からの街道を多く走らせる伊丹地域を押さえる必要があると考え(指示され)たようです。
また、1574(天正2)年3月26日(史料では年記を欠き、個人推定)付けで村重は摂津国禅昌寺(京都南禅寺真乗院末寺)の兵庫下庄内禅昌寺分の寺納を認めると安堵状を発行しており、大坂湾岸の政治的対応を行っている事がわかります。
同年4月、村重勢は摂津国有馬郡の討伐を行いながら、大坂本願寺方への備えを固め、同年7月20日に同国中嶋(堀)城を攻め、本願寺・崇禅寺勢と交戦。双方に多数の死傷者を出しています。
この時村重は、伊丹城への攻撃も同時に行っているようで、信長から援護も受けながら任務の遂行を続けていた事が、前記の7月29日付けの信長と光秀の音信で伺えます。
そして同年8月、宣教師ルイス・フロイスが、摂津池田城に居た村重を訪ねています。フロイスのこの時の記録によると村重は、フロイス一行を大いに歓待し、長期滞在するようにと願ったが、これを辞して尼崎に向った、とあります。また、村重はフロイス一行の道中警護のため三十人の従者を提供し、乗り馬も与えた、と記述されています。
村重は、池田と尼崎を確保し、その道中もある程度の勢力範囲内だった事がこの事から伺えます。尼崎までの道程は、伊丹の近くも通るため、この時点で、伊丹城を落とすメドが立っていたのかも知れません。
そして、同年11月15日、村重は伊丹城を落とします。この時、伊丹城内からは降伏のための和睦が嘆願されていたようですが、村重はこれを受け入れず、攻め落とした模様です。
伊丹氏のこれまでの行動にもよるのですが、やはりどうしても信長方の直轄にし、管理しなければならない事情が、村重の強行措置の理由だったのではないかと思います。
しかし、池田の地理は丹波国や摂津国北部方面の対応を行うには不可欠で、伊丹へ本拠機能を移したといえども重要であったため、天正3年秋頃に廃城されたどころか、兵站基地や緊急時の砦使用などの再編概念の下、補強なども行われて、伊丹と一体化した形態で存続していたのではないかと考えられます。
実際に明智光秀は、丹波から退却する際に池田を経由して京都に戻った事がしばしばあります。これはやはり、あらじめ設定された概念がなければできない事でしょう。