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<池田城と町の関係>
1568年(永禄11)10月に織田信長が足利義昭を奉じ、大軍で池田城を攻めた時、池田筑後守勝正は三好三人衆方として抗戦。この時、勝正勢は信長勢に激しく抵抗して少なからず攻め手に損害を与えています。
この激しい抵抗を見た信長勢は、池田の市場に放火し始めます。これを機に勝正は、降伏を申し入れ、城を開いています。
このことから、城と町の関係が当時どのようであったのか、様々な検証が行われています。残念ながら、池田については推定される町域での発掘が行われていないため、科学的検証は進んでおらず、公的な証明は今のところ行われていません。
城が興った頃の史料から全て目を通す事はできていないのですが、享禄年間(1527〜1532)頃から廃城とされる年代の史料を見ると、1546年(天文15)9月10日の池田城攻めで「市庭」(市場)の記述が登場します。それ以前では、城を攻めたとの記録の中に、市場に関するような記述が現れない事から、天文15年9月10日の記述が城との関係についての初見と思われます。
この頃、城という地域の有力者を守るためだけの施設と経済力活動の象徴である市場との関係が変化し、一体化とはいわないまでもより密接な関係を保っていたと推測できる動きがあったと思われます。
当時者同士の抗争だけなら、その当事者に最も関係の深い居所である城や館を破壊すればよい事ですが、それに加えて市場にも損害を与えているという事は、やはり、城との関係がないとは考えられません。その当事者の経済活動(一部)を市場が担っており、これに損害を与える事は、軍事行動の目的の一つになり始めたのが、天文15年頃だったのかもしれません。
史料上では、天文15年以降の池田城攻めに関するものには、ほとんど城と市庭(市場)が並んで記述されるようになります。
また、摂津池田氏は、その興りから数世紀に渡ってその勢力を拡大させ続け、金融関係も手掛けながら影響地を拡げました。池田氏は複数の市場にも影響力を持っていたとも考えられます。
例えば、細河荘(現池田市細河地域一帯)では牡丹などの花卉栽培が盛んであった事から、こういった特産物の市場があったと考えられます。更に、この地域で室町時代末期頃の古銭が多量に出土している事から、そういった推定もできるのかもしれません。
また、現池田市域南部には西国街道が通っており、それに沿ったところに西市場・東市場という旧字があります。これもやはり、「市場」機能を持つ営みがあったと考えられています。その更に南、現豊中市服部本町付近にも当時は「市場」があったと考えられている事から、ある間隔毎に市場機能を持つ地域があった事は確かなようです。これ以外にも小さなものは多数あったと考えられます。
そういった商業活動の中で、特に地域有力者と繋がりの深いものは、その中心地に集積されたのだろうとも思われます。現代社会と同じように本店と支店といった役割分担もあったのかもしれません。
また、特に立地の良い地域にそういった利益は発生しますので、単純に商売の地としての集積もあったとも考えられます。現代の駅前のように...。
こういった流れの中で、都市(城下)は拡大し、経済活動も更に活発となり、当然、地域の有力者とも密接に結びつくようになるのだろうと考えられます。
時は戦国時代、安全と権利を武力に頼るところが大きい時代には、やはり都市の安全を池田氏が担っていたという事情もあったのではないかと思われます。武力を伴う商業活動、また、池田家という地域政治を支える商業活動(商人)という関係もあったのではないでしょうか?武力が商圏を拡げるという事もあったのかもしれません。
やはり、政所機能の中心でもある城に、市場が付帯するという関係は、自然な流れの中で根付いていったのだろうと思われます。