見出し:池田城関係の図録
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写真:摂津西市場城跡摂津西市場城跡
The remains of the Nishiichiba castle.

池田市南部の豊島北(てしまきた)に西市場城があったとの記録があります。日本城郭大系12(新人物往来社刊 1981年3月10日初版)や日本城郭全集9(人物往来社刊 1967年8月30日初版)などには、小さい記事ですがその紹介がされています。
 両書の内容を要約すると「摂津志」や「北豊島村誌」などを参考にしてあり、旧地名の西市場にその跡があるとの事です。東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域がそうだろうと推測され、故中村弥三郎氏宅がその跡と伝わっています。
 中村氏宅は、代官所(何か公的な施設?)があったようだとのお話しも聞けました。この話しは江戸時代頃の事と思いますが、その頃はやはり、施設や地形の再利用もされていた事でしょう。また、軍事施設はそれなりの立地のところにありますから、平和な時代とはいえ、有事に備えて半分軍事目的を帯びた公的施設ですから、当然その跡を利用する事は容易に想像できます。
 この付近、今では地形が変わってしまいよくわかりませんが、近年に開発されるまでは、このあたりは地形がやや高く、南北西の3面に水田を巡らして構居の状を成していたといいます。また、中村さん宅に薮が3面に巡らしてあったとの事です。
 今も現地では、すぐ東には箕面川(みのおがわ)があり、集落内には三叉路や小川(今は暗渠になっている)があり、そういった言い伝えを感じさせる名残りがあります。戦後すぐくらいまでは、小川に小橋がかけられていたところがあり、そのあたりを指して、城の堀跡と呼ばれていたようです。

 ちなみに日本城郭全集9によるとこの城(砦とも)は、瓦林越後守が築いて拠った観応年間(1350〜51)に始まるとあります。この辺りは、西国街道(京都と中国・九州を結ぶ)に近い要所である事から、今在家・中之島などと共に池田市南部を押さえる施設として何らかの機能があったと思います。

 また、別の記録には「豊島冠者故居」の記録が同じ地域に残されていて、それぞれの関係は解明されていませんが、古くからこのあたりが歴史的に関係の深い場所だということがわかります。
 それからこの中村氏は、池田氏と非常に関係の深い木田中村氏と関係があるのだろうか?なんて個人的に興味を持っています。

マップはC-5

2001年10月21日:記


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