摂津加茂城跡?
The remains of the kamo fortress.
兵庫県川西市加茂には、池田氏に仕官する荒木羲村(吉村)の守る城(館)があったと言われています。この加茂館については「加茂付近」のコラムをお読み下さい。それから、写真はその加茂の高台から東(池田方面)を見たところです。写真中央は、池田市神田付近、左に少し写っているのは五月山です。今は家が建て込んでいて、写真の左は視界が利きません。しかし、加茂からはこのように一望できるようになっています。
さて、加茂地形は隆起した小高い山になっていて、その周囲には堀のように川が流れて、自然の要害をなしています。この加茂という場所には古くから集落が形成されていて、最近は国指定の遺跡として有名になりつつあるところです。弥生時代あたりの集落だったと思います。ちょっと詳しい時代を忘れてしまいました。
やはり、地域の自衛をするには適した場所でもあり、連絡用としても適当な高さを持っていたことから、この場所はいつの時代にも利用されていたと考えています。池田氏は1363年(貞治2)興福寺領摂津加茂村の半済を受け、次第に周囲に勢力を伸ばしていきます。戦国時代末期には、池田の対岸の川西市地域も池田氏の支配する地域として、かなりの広がりをみせていました。
支配地域が広がると、当然その緊急連絡網というものが整備されてもおかしくないし、自然なことと思います。池田を本城として、その周囲に一定間隔でそのような対策(システムが)が講じられていたのではないでしょうか?伝達方法として単純に考えると、戦国時代に武田信玄が多用していたことでも知られる「狼煙」、他に「鏡」や「旗」などが考えられます。「狼煙」は西暦664年天智天皇の時に正式に日本で実施されて「烽」制度としてシステム化し、敵の侵入に備えました。また、「旗」は江戸時代になって大坂に米相場ができると、その日の米相場を伝えていました。いわば手旗信号です。これは電話が敷かれても続き、1906年に廃止されるまで実際に行われていた通信手段です。この旗ふり通信は、近い所へは「白旗」、遠い所へは「黒旗」で知らせ、12キロ程先にまで伝達できたようで、飛脚よりは遥かに早く伝達できました。ちなみに12キロは3里で、1里は歩いて1時間です。
戦国時代には、やはりこういう通信網の整備が行われていた筈で、池田城を中心としてその想定をした時、面白い結果が出ると思います。池田城の北側には五月山がありますが、その更に北には細河荘があり、ここは池田氏の支配地域でした。その東山あたりに池田氏の一族が住んでいたようです。それから川西市小戸、火打、池田市木部、古江あたりは池田氏の影響が強い地域でしたから、北へ向かってはそのようなルートがあったと思われます。池田城の南へは池田市神田、川西市久代、池田市宇保、西市場、北今在家がそれに関係する地域だと思います。更に南に豊中市原田という地域がありますが、ここも池田氏と結びつきの強い豪族が居ましたから、何らかの連携をしていたと考えられます。
ちなみに今上げた地域で、東山(現池田市東山町)、木部(現池田市木部町)、神田(現池田市神田)、西市場(現池田市豊島北)、北今在家(現池田市住吉)と池田市中之島(現池田市石橋)には砦があったと伝えられています。
地形の高いところ、旧街道沿い、池田氏支配地域は注意して調べると何か池田氏や城の防御システムがわかってくるかもしれません。
▲ マップ(詳細図)はA-4 ▲
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