池田市宇保
The Uho area in Ikeda city
池田市宇保地域には、鎌倉時代の初期に牛頭天王を祭神とする呉庭総社と善城寺がそれぞれ創建された事もあって、早くから開けていた地域でもありました。
この地に牛頭天王が勧進されたのは、草創期の鎌倉幕府の支配権確保の目的があったようです。この名残りが今も観音堂として同地にあります。
この宇保辺りの様子を「穴織宮拾要記」には、「池田ノ町屋ハくれは田より宇保尊鉢につつく也、中新町ハ絹屋町也と有」と記録されています。呉庭荘の勢威が安定拡大するのに伴って、豊島郡の北半のこの地が北条地区と公称され、宇保・佐備村のような村々が分立し行政区画が組織されていました。
また、宇保には猪名津彦神社がありその境内は、古墳時代後期の円墳がありました。この一帯は宇保段丘と呼ばれる猪名川左岸の河岸段丘の西端ですこし高くなっています。ちなみに、この「ウホ」とは室田卓雄氏著「池田歴史散歩」によると渡来系氏族の秦氏に関連した地名で、「宇」は私達、「保」は自墾の私田の意味が多く用いいられている事から、「私達の土地」と解する事ができると紹介されています。
さて、戦国時代この地にも土豪がいたようで、元亀2年(1571)頃と推定される、池田一族など有力者の発行した連署状にも「宇保彦丞兼家」として署名があります。
宇保の現地を見ると、前述のように少し高い所になっていますので、館や砦等を構えるには都合の良いところですし、古くから開けている地ですので、道もついているでしょうし、それなりの実力者が台頭していった事は十分予想される事です。
また、天文年間頃(1532〜1555)の池田氏と南郷目代今西氏との間に交わされた榎坂郷の代官職に関する書状に「給人」として、宇保氏の名があります。この文書をはじめとして多くの記録に宇保氏が登場します。池田氏の密接な関係がわかるとともに、宇保氏の活動範囲の広さが伺われます。
宇保氏は、池田氏勢力下の豪族として、政治・軍事ともに深い関係にあったと考えられます。
▲ マップはB-4 ▲
参考:大阪府史、池田市史、近畿大名の研究、
池田市内の寺院・寺社摘記、室町幕府解体過程の研究など
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