淡路国岩屋城
The Manaita-yama castle.
(個人蔵:淡路国名所図絵より)
淡路島北端には、岩屋城跡がありますが、詳しい事はわかっていないようです。しかし、この岩屋城は、数年に及ぶ織田信長と足利義昭の争いの中でも重要視されて、激しい争奪戦が繰り返されています。また、その時代に武将として生きた荒木(信濃守後に摂津守)村重も岩屋の要地を巡って頻繁に手当て(政治・軍事的)を行っています。
さて、その頃の淡路国岩屋方面には、二ケ所の城があったようで、一つは岩屋港に隣接して今も城山(三対山)と呼ばれている場所(絵島ヶ丘城)。もう一つは、その北西方向にある松帆という所(俎板山城)。
絵島ヶ丘城は、1509年(永正6)に大内義興が、京都に上ろうとした時に築城されたとされ、その後、足利義昭による室町幕府再興に加担した毛利輝元も当所に家臣を派遣するなどしていたと見られます。更に後の近世(江戸時代)に入って、池田輝政などによって、改修されているようです。
俎板山城は、明石海峡から瀬戸内海、大阪湾までも見渡せる位置にありました。ここは、源平争乱の頃から軍事的要所として使われて以来、度々利用されていた事が伝わっています。そして、ここも、信長と義昭の対立からの争いでも利用されたと考えられています。「淡路国名所図絵」によると、俎板山城の左右には、払川・大谷川が両手を開いたように流れ、その間は浜になっていたという様子が描かれています。川は、堀として利用していたのかもしれません。この城には、1560年(永禄3)頃安宅紀伊守宗景が入っていたともいわれています。
しかし、この俎板山城は、大正時代初年から、砂利の採取が続き、現在は消滅しています。ただ、1965年(昭和40)頃までは、城の東側の一部が残っていたようです。また、この跡地には、現在「松帆の郷」という温泉保養施設が建設されており、賑わっています。
色々と淡路岩屋方面の城について考えていたのですが、この地の気象条件から考えると、城や砦などの軍事用施設は数カ所あって、それを使い分けていたのかもしれません。この方面では、冬の季節風として北西風が、夏の季節風(「まぜ」といわれる)として南東風が吹き、これらを防ぐために、季節によって軍事利用する港湾施設(それに附随する城砦もあっただろう)を変えていたのではないでしょうか?岩屋・野島(岩屋の西側)・東浦(岩屋の東側)などを広範に、適宜使用していたのかもしれません。
その中で、特に連絡や見張り、また、最終的な防衛拠点として、俎板山城が機能していたのではないかと、個人的に考えてみました。淡路島の歴史にとっても大変重要な淡路岩屋城については、今後の研究に期待したいと思います。この地に関わりの深い人々も解明されるといいですね。
※絵は淡路国名所図絵に着色・部分拡大
→松帆の郷ホームページ
参考: 兵庫県史、岡山県史、大阪府史、和歌山県史、
大阪市史、堺市史、伊丹史料叢書、明石市史、淡路町誌、
織田信長文書の研究、信長公記、本願寺日記、日本城郭大系12、
戦国合戦大事典6、茶道古典全集、兵庫県の地名など
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