旧西国街道
Saigoku road
西国街道は京都の羅生門から山崎、高槻、伊丹の昆陽を経て西宮へ出て、山陽道に接続する道でした。途中山崎から西宮までの九里二町の間を特に「山崎通」と呼ばれていました。この間、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽、西宮に宿駅が設けられていました。西国街道は、北摂の山地から南北に流れる川を複数、越えなければなりませんでした。水無瀬川は「板橋」、桧尾川は「徒歩渡り」、芥川は「土橋」、安威川は「板橋」、茨木川は「石橋」、勝尾寺川は二個所とも「石橋」、箕面川、猪名川は「徒歩渡り」でした。官道では、東海道の大井川のように軍事目的もあって橋が架けられなかった所も少なくありません。それも小さな川ではなく大きな川に限ってそうしたのですから、不便だったろうと思います。
西国街道は、大坂を経由せず京都と神戸地方を最短で結ぶ道路だったことから、参勤交代などにも使われていました。また、平安時代後期には、源義経や弁慶の一行が、また、江戸時代には北轟木付近を浅野内匠守が切腹した後、お家の一大事とばかりに不破数右衛門が鎧櫃を背に、大身の槍をかかえて駆けたと仮名手本忠臣蔵に書かれています。更に、幕末にも1863年(文久3)京都を追われた七卿の一人三条実美公が池田の石橋付近で、馬首をめぐらし都を拝したともいわれています。
現在では国道171号線が旧西国街道沿いに走っていて国道に近い所は昔の面影は薄れています。しかし国道から外れ、生活道路になっているようなところは未だに古い佇まいを残す所もあります。西国街道を辿ると茨木市では、郡山本陣は文化財として残されていますし、箕面市百楽荘二丁目辺りから半町辺りにかけての旧道は、当時の面影を残します。
|