摂津国堀(中島)城
The ruins of the Hori(Nakajima) Castle in Osaka Pref..
摂津国堀城は1566年(永禄9)に細川右馬頭(典厩)藤賢が、築城したとも伝わっていますが、詳しくは解っていません。
また、堀城は、中嶋の内(現淀川と神崎川に囲まれた島状の陸地で、西淀川区・淀川区・東淀川区に渡る行政区地域。)にあり、その中心的部分であった事から中島城とも呼ばれていたようです。
この堀(中島)城は、場所も特定されておらず、十三本町一帯と考えられており、今のところ十三元今里にある十三公園あたりがその跡と考えられています。また、公園内に今も木が多く茂っているのは、その頃の名残とも伝わっているようです。
また、この堀(中島)城は、摂津国欠郡にあり、大河に近い事から、欠郡の中心的な場所と考えられており、ここを巡って政治的な動きも多数見られます。
中島を囲む多数の川は(当時は長柄川(中津川)・三国川(神崎川)・安威川・猪名川などに接していた。)、京都と海をつなぐ大動脈でもあり、その把握と管理は政治・軍事的にも最重要でした。
ちなみに中・近世初頭の当時は、大和川の付け替え前の地形で、大阪平野には、深野池・新開池があり、東西に大きな川が流れていました。また、中島も一つでは無かったらしく、今の柴島あたりで川が陸地を東西に分断しているような格好になっていたようです。
摂津国内最大級の国人池田家も当主が長正・勝正と代を経ると、活動範囲を拡げて行きます。池田衆もこの堀(中島)城の攻防などに関わっているようです。
この中島は地勢的に川・海・街道を持ち、また、島状の地形から城としての守りには最適で、そのために数え切れない程の攻防が繰り返されて戦場になっています。
堀城のある中島には、この他にも堀城の支城や柴島城、三津屋城、大和田城、環濠集落(定専坊寺内他)などがあり、狭い範囲に多数の軍事的要素を持つ施設がひしめいていました。この事からも、戦場になる事が多かった要すが想像されます。
<参考>
日本城郭大系12、日本城郭全集9、大阪府の地名1、新修大阪市史、淀川区史、中世大東の歴史と信仰、大和川流域と高安山、本願寺日記、私心記、言継卿記、室町幕府解体過程の研究、守護領国支配機構の研究など
|