枚方(河内)街道
It existed the Hirakata(Kawachi) road in the Age of the Warring States.
江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道(以下、河内街道で表記を統一します)と呼ばれるようになったようです。
中世や近世には、他の多くの街道がそうであるように、地域によってバラバラに呼ばれていたようで、この河内街道は、その全部、または一部を枚方街道などと呼んでいたようです。
1922年(大正11)刊行の大阪府全誌では、大阪府枚方市の伊加賀から寝屋川・大東・東大阪市を経て、JR八尾駅までの道として、河内街道が紹介されています。
多分この時の道は、それ以前の道を広く真っすぐに付け替えたものだったのだろうと思います。他の街道でもそうですが、大正時代には、交通手段の機械化(モータリゼーション)が起り始め、物資の流通や人の行き来の利便性を高めるために、村などの同意が得られたところは拡張工事が行われたようです。
さて、河内街道は、近代以前にも重要な道であったようで、東高野街道が生駒山麓を南北に通っているのに対し、河内平野中央(主に茨田郡・若江郡)を南北に通り、各村を結んでいました。また、途中、恩地街道・奈良街道・野崎街道・茨田街道・守口街道などを交差させ、基幹道ともいえる道でした。
それから1704年(宝永元)に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、河内街道はこれを渡って枚方方面へ続いていたと思われます。
写真は、河内街道の古い道で、東大阪市加納2丁目附近の様子です。突き当たりは延喜式神名帳に載る古社の宇波(うは)神社です。道幅は狭く、馬や牛の対面通行もやっとかもしれません。道も真っすぐでは無く、三叉路や鍵型になっています。
この河内街道は、枚方から京街道に接続し、山城国八幡を経て京都へ入ります。また、南は、八尾から竜田越奈良街道・東高野街道へ接続し、藤井寺・古市・富田林・河内長野などへ至ります。中世時代の河内街道は、茨田・若江郡の南北の主要道といった感覚だったのかもしれません。
さて、永禄年間以降、摂津国池田家が栄え、活動も広範囲になると河内国方面へも進出していきます。また、河内国内には、飯盛山城・若江城・高屋城という拠点があった事から、池田家の当主や要人など関係者もこの河内街道を頻繁に利用した事でしょう。
特に実質的な最後の当主ともいえる池田勝正にとって河内街道は、大変縁の深い道でもあります。
<参考>
大阪の街道と道標、大阪府の地名2、大阪府全誌、各自治体の野外表示板、中世大東の歴史と信仰、大和川流域と高安山、本願寺日記、私心記、言継卿記、枚方市史(史料編)、八尾市史(史料編)、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、日本城郭大系10など
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