細川高国像
The prince Takakuni Hosokawa
(衡梅院蔵)
細川高国は、室町時代の武将で室町幕府の管領でした。通称は六郎、後に民部小輔、右京大夫、武蔵守といろんな官位となり、政権を樹立する程の勢いとなります。
高国は、細川政元の家督相続を巡る澄之・澄元の争いでは澄元に味方し、1507年(永正4)8月に澄之を滅ぼしました。
しかし、翌年4月には伊丹元扶、内藤貞正等の地方国人を味方に今度は、澄元を近江へ追放してしまいます。
同月、高国は周防(山口県)の大内義興と共に前室町将軍の足利義尹(よしただ)を堺に迎えます。その後、高国は右京大夫、管領に任じられて義興と共にこの政権を支えました。
その後、1518年(永正15)に大内義興が本国へ帰国すると細川澄元を擁する三好之長(これなが)に京都を奪われる事がありましたが、高国は再び奪回します。
しかし、1526年(大永6)細川尹賢の口言により高国は香西元盛を殺害(自殺させる)に至ります。その暴挙に元盛の兄弟である波多野稙通・柳本賢治が挙兵し、次いで阿波国(徳島県)から三好勝長・政長が堺に上陸して攻め寄せます。
やがて高国政権は崩壊し、1531年(享永4)6月、摂津国(大阪市天王寺区)天王寺で三好之長に敗れ、敗走中に尼崎大物の商家に隠れていたところをを捕らえられて自刃しました。これが有名な「大物くずれ」です。あ、読み方は「ダイモツ」です。
また、高国の死については、一説に病没ともあるようですので、今のところ定説はないようです。
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