大広寺血天井
The bloodceiling in Daikoji temple
1507年(永正4)に死去した、管領細川政元の後継ぎをめぐり、細川澄元と細川高国の抗争が起こります。初め、友好関係にあった両者は、次第に反目し合うようになり、遂に高国は澄元を攻撃します。不意を衝かれた澄元は側近と共に一旦、近江に逃れます。
その頃摂津では、高国側か澄元側かでその去就を巡る動きが深刻になっていましたが、澄元方が不利な状況で、池田氏と同じ澄元側であった芥川氏は滅ぼされてしまいます。
諸戦で勝利した高国勢は、次第に有利となり伊丹氏や内藤氏等も参じて二万人ばかりの軍勢に膨らみます。池田氏は未だ澄元側にあって、孤軍となり、1508年(永正5)5月上旬から典厩尹賢を大将とした高国勢に攻撃を受けます。
激しい攻防がありましたが、池田方の兵糧は尽き、池田城の堀(恵那堀?)が埋められたのをきっかけとして、一族の池田遠江守正盛(出家後、性繁)が投。5月10日に池田方は降伏。貞正ら幹部は、城に火をかけ貞正以下二十余名は自刃します。ちなみにその後、池田家は高国方として、各地に転戦します。正盛は高国に加担する事で許されたようです。
この様子を「細川両家記」では「(前略)国中に同心するものなきに、かように振舞ひける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。」と記して池田筑後守貞正の武勇をたたえています。
写真はこの時切腹した貞正の足下にあった床を天井に張ったものと伝わっています。遺徳を残したいとの願いからでしょうか?
その子である三郎五郎(久宗)は叔父である池田正能に守られ、妊娠中の母と弟と共に池田城を脱出し、三郎五郎は摂津有馬谷に退きます。
1519年(永正16)、細川澄元が勢力を盛り返したという報に接しこれに呼応します。久宗は高国軍を撃退して戦功を上げます。その後、三郎五郎により池田城は再建されます。
参考:日本城郭大系12、池田市史1、大阪府史4、日本城郭全集9など
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