見出し:池田城関係の図録
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写真:大広寺大広寺
Daikoji temple.

五月山の半腹にあり、塩増山と号する曹洞宗大本山総持寺の直末寺で、釈迦牟尼仏が本尊のお寺です。塩増山というのは昔ここに池があって、その池が不思議な事に、水が海のように満ちたり干いたりしていたそうです。その池を埋めて、寺を建てたので塩増山という旧跡を残したようです。今もその池を偲ばせる小さな池があり弁天さんが奉られています。また、このお寺は摂津池田氏の菩提寺で、今も墓塔や肖像画など多くの縁の品が残っています。

 大広寺は文明の頃(1469〜1486)に代四世祥山和尚に池田城主充正が帰依して伽藍諸堂を再建して菩提寺となったようです。ちなみに祥山和尚はこのお寺の開基とされています。また、慶長頃(1596〜1615)に十世決伝和尚の時、池田城主池田知正(1603年(慶長8)に池田の神田館で没)も本堂を再建されたとも伝わっています。
 大広寺は武士勢力と結びつきが強いのか(禅宗は元々そういう傾向にあるようです)後に、池田家家臣から身を起こした荒木村重が伊丹(現兵庫県伊丹市)へ移り、有岡城と改名して居城とした時に大広寺は(本養寺も)伊丹へ移っています。更に後に、荒木氏も討伐され滅びると両寺は再び池田に戻りました。お寺に伝わるところでは、元禄時代の1694年(元禄7)に再建されています。前者の再建時期とは食い違いますが、時期的には可能です。どちらが本当かは今後も調べてみます。

 また、大広寺は池田城の施設の一部だった可能性が高いようで、それは城郭史的に考えて行くと、始め城というのは山頂(附近)につくられるのが普通だったという事で、それは池田城でいうと大広寺がそれではないかと考えられています。その後、次第に城が平地に降りて行くに従って、その施設も当然城郭の一部として利用されていただろうと予想されているものです。また、1939年(昭和14)発行の池田町史に元陸軍37連隊長の話しとして掲載されている内容は、「(前略)状況を見るに当時は未だ自然の嶮を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々山上の大広寺附近がその一部の様に想はれる(後略)」という事が掲載されています。

 大広寺には池田を訪れた文人・墨客の墓碑や運慶作の釈迦象、古い様式の建物が残り、池田の歴史と共に歩んできた古刹です。高台に有りますので、静かな境内で歴史ロマンに思いを馳せるのも一興かもしれませんね。

マップはB-3


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