細川澄元像
The prince Sumimoto Hosokawa
(永青文庫蔵)
細川高国と同じく細川政元の養子で、初め細川政元の家督相続をめぐる争いでは、澄元側についた高国の活躍もあり勝利し、将軍足利義澄の下に実験を握り丹波・讃岐・土佐守護をも兼ねる権勢をほこるようになる。しかしその僅か数カ月後には、その高国と不和になり、高国が大内義興と共に前将軍の足利義稙を擁して幕政を握ると権力の座を追われました。抗争に明け暮れた生涯だったようです。31才の若さで病気が元で亡くなっています。
摂津池田家は一旦、高国に味方(高国に気脈を通じていた一派もあったようです)するなどしていましたが、この澄元側ついて抗戦し池田城も攻撃されています。高国側の攻撃を受けた1508年(永正5)4月、池田城は総攻撃を受けて落城、当主貞正以下多くの者が自害(これが今も大広寺に残る血天井と言われています)する事になりました。その後、澄元勢が巻き返しの兆しを察知し、貞正の子池田三郎五郎(久宗。後筑後守。)は、避難先の有馬田中城(兵庫県三田市下田中)で挙兵して善戦し、池田城を奪還します。
この時代は、正に戦乱の世で一進一退を続け、地方の国人はその去就に頭を悩ませていたようです。摂津池田家はその行動から中央に近しい立場でありながら独自の路線を目指していたような感あります。
その後にあの、織田信長が摂津に侵攻しますが、池田家のみが激しく抵抗したりします。
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