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<池田城の興り>
鎌倉期以降、居館が拡大して囲郭が複雑化、平地方形館の発展形式である「館城」が全国的に造営されるようになっています。それらの遺構は、台地端・台地縁・台地隅を占拠して、同心円・直線的・複雑的など多郭式を呈して、その形は様々です。本質的にはその殆どが、豪族の居館ですが、囲郭内に一門や従者の居住区を設けて、防御力の増強を図っている遺構も多く確認されています。
これらは、自然地形を利用しつつ、二重土塁・逆越字型空堀・空堀の折邪(おりひずみ)・腰曲輪(帯郭)・犬走り・堀底道などの普請作事技術も発達していきます。
それが戦国台地丘陵城郭に発展していきます。渓谷平野の出口部には半島状台地が多くあり、この台地のほぼ全域を占拠した城郭遺構は全国に多数あります。
この形式は、館と山城の利点を結合したもので、遺構は直線的・段階的・複雑的などの連郭または多郭といった形式になっています。
中世の城の性質を持つ池田城も、そういった特徴を持って、その時代時代により発達・発展をしていました。
しかしそんな池田城は、いつ頃だれによって築かれたかははっきりしたことはわかっていませんが、1469年(文明元)には既に存在していたことが確認されています。池田城は五月山の麓にあり標高50メートル前後の丘陵上に築かれていました。この場所は、山や川を利用でき軍事的拠点としては最適の立地条件です。近年の調査では最盛期の城郭規模は、南北に約550メートル東西に約330メートルとかなり大規模なものだったという事がわかりました。
中世の城である池田城の特徴としては、城内に街道(江戸期には能勢街道と呼ばれる)を取り込んでいたようです。有事には封鎖して情報や交通を遮断していたようです。また、領土支配や金融業で財をなした池田氏は庇(ひさし)を持つ大型の建築物や庭園を作り、日常生活にも対応した構造になっていて、同時代の他の城とは少し違った特徴もあったようです。
また、これは個人的推定ですが、旧大西町あたりに城主に関係する「館」のようなものもあったと記録にあることから、池田城発展の過程と関連しているのかもしれません。元々はこの平地に館などがあり、それが軍事的にも都合の良い台地上に機能移転をさせたのではないかとも思えます。
さて、城の防御は後背の五月山と杉ヶ谷川、城の西を流れる猪名川を天然の要害としていたようです。本格的な調査はされていないのですが「惣(総)構え」を形成していたと思われる記述の古文書もあり、それが本当だとすると防御力の高い堅固な城だったと言えるでしょう。
長年にわたる学術的な発掘調査などによる研究結果(平成7年頃以降は精度が高くない)から明らかになっている池田城は、私たちが今日イメージする大坂城や姫路城といった土塀で石垣といった形式ではなく、土塁と空堀、ガケを利用したもので「梯郭式」、若しくは「戦国台地丘陵城郭」と言われる城でした。