池田城枯山水跡
The remains of dry garden in the ikeda castle.
写真は、池田城の発掘調査に基づいて遺構の復元がされた枯山水です。池田城跡公園の中にある、数カ所の復元コーナーのひとつです。池田市教育委員会によって1968・69年(昭和43・44)と1989〜93年(平成元年から平成4)までの大掛かりな発掘調査が行われました。詳しくは池田城跡-主郭の調査-をご覧頂ければと思いますが、庭園遺構は1968・69年の調査で確認され、その後の調査でも再度検出されています。それらの報告書によると、庭園の遺構は築城当初からのものである事がわかり、池田城が廃城するまでの間には数回変遷があるものの、この庭園遺構から池田城は発掘や文献によっても有事だけに使用される城ではなく、平時にも居住空間としての役割を持っていた事が、明らかになりました。
今、池田城跡公園にある復元コーナーは、その発掘時の遺構を復元したものです。枯山水は、発掘時の石やその配列を復元してあります。
文献では、池田城が築かれた当初の記録として「蔭凉軒日録」(1466年(文正元)2月頃)では、「当国池田筑後守・其子曰民部丞、云尤富貴無双也」とあり、更に1489年(長享3)の「政覚大僧正記」にも「一、早朝温泉寺ヲ面々立、池田庭倉以下これを拝見す、目を驚かす者也」とあってその当時の池田城の様子などを知る事ができます。
さて、戦国も末期になると世の乱れは極みに達し、戦も頻繁に発生します。ですから、城や館などの軍事関連施設には、その細部に至る迄ことごとく非常への備えがしてあったようです。「金城温古録」という名古屋城の植生について記録されたものがあります。これによると、草木の1本まで篭城戦や警護の点を考えて植えられていたようです。松や杉は土塁上に植えられて、城の目隠しや建築用材、薪や松明用の資材として。それから、梅や栗などの実のなるものは非常食、竹は矢の材料に用いられ、薬草なども多く植えられていたようです。
要衝だった池田城でもきっと、そのような備えはされていたと考えていますが、発掘調査ではその辺りには触れられていません。植物だから腐ってしまって出なかったのか、そういった事には関心がなかったのかですね。
そんな実用一辺倒の中に、庭園も次第に肩身を狭くし、遂にはなくなったのか、そういった実用品を芸術の域にまで高めて、ゆとりとしての庭園の外観を保ったのかは今では推測のしようもありませんが、考えてみてもいいのではないかと思います。
ちなみに庭園は、戦国時代末期には姿を消していたようです。
池田城が廃城となった跡、ずっと最近の話しですが昭和の初期には、一帯に薬草園がありました。今では有名なシオノギの前身「塩野」さんの薬草園でした。江戸時代の頃にも薬を扱う店が池田にありましたが、池田城の植生に関連するものかどうかはわかりません。しかし、もしかすると関連しているかもしれませんね。その気で調べれば何かあると思うのですが...。
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