池田充正画像
Pictures of the Mitsumasa Ikeda.
(池田大広寺蔵)
応仁の乱の頃活躍した池田家当主で、充正は摂津池田家の版図を大きく広げました。彼は、池田家にいっそうの経済的繁栄をもたらした他、池田城館も大改修し、当時としてまだ珍しかった弓場・的場・馬場を備えた城にし、更に傭兵を雇って戦に出かけました。
その様子を「後法興院日記」の1467年(応仁元)5月16日の条に「世上の雑説条々耳に満。摂州の国民池田、上洛す。細川の被官なり。馬上十二騎野武士千人ばかり也。門前(近衛邸)を過ぐる間、見物せしめ了。」とあります。しかし、応仁の乱で池田城も落城します。
また金融面では、1466年(文正元)春、池田充正が有馬の温泉に湯治に訪れていた京都相国寺の季瓊真髄を訪ねた事が記録に残っています。真髄の日記「蔭涼軒日録」には、「池田、一月(ひとつき)の子母銭は是れ、千貫文なり。然れば則ち一年一万二千貫文なり。一年中の米子一万石を収むと云々」と書かれています。
他方、池田の文化・芸術もこの頃大変豊かな時期を迎え、多くの文人達が池田に招かれるようになります。歌僧の招月庵正広や歌人で連歌作者の牡丹花肖柏が池田に庵を建てて住んでいました。各々「松下集」や「春夢草」という歌集を編集し、その中には池田一族や池田の寺社の事が書かれていて、大変貴重な史料にもなっています。
また、大広寺の北側、五月山中腹の「望海亭跡」も充正時代に建てられた庵の跡です。この庵で当時色々な交流が行われたのだろうと考えられています。
池田筑後守充正は摂津池田家にとって、中興の祖とも言える重要な人物だと言えます。
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