池田城南の口跡?
Existed? the south entrance of the Ikeda castle.
あまり知られていないのですが、池田城に関する施設らしき「南ノ口」というのが、今の池田市大和町と菅原町の付近にあったかもしれないと推測する研究者があります。
南ノ口では、1568年(永禄11)10月2日頃に足利義昭・織田信長勢50,000と摂津池田家の1500程(詳細は不明ですが、史実では他の元亀元年頃の記録で3,000という数字は確認可能です)の軍勢が衝突した場所と考えられています。「江源武鑑」は、その時の様子をこう伝えています。
「同日申剋江陽七手組衆池田城へ攻寄此城ニハ三好笑岩(康長)カ旗奉行ニ池田筑後守千五百騎ニテタテ籠タル南ノ口ヘ足軽ヲ出シ防ク處ニ落合カ手ヘ池田カ足軽大将高山門内ト云者ヲ打取申剋ヨリ酉剋ニ至テ合戦有リテ池田筑後守人質五人ヲ出シ降参ス依之池田城七手組ヘ請取ル佐久間ト目賀田両人ノ取次テ江尾ノ両所ヘ御礼申シ池田筑後守政久國武丸ト云太刀ヲ屋形ニ献ス信長ヘハ龍尾ト云名馬ヲ献スルナリ」
この記録からすると、10月2日頃に織田信長の軍が池田城(惣構え)へ攻め寄せ、待ち構えていた池田勢と南ノ口で、申の剋(15〜17時)頃から酉の剋(17〜19時)頃まで戦いがあったようです。この戦闘で、近江衆の落合某の手で、摂津池田方高山門内が戦死。そして間もなく池田勝正は降伏。人質5人を出し、名馬や太刀を送ってその宿所に訪ねたようです。池田城は近江七手組(織田信時)が請け取ったとあります。
写真の辺りが、南ノ口と考えられる付近です。この辺りには、お地蔵さんや五輪塔が沢山あり祀られています。
また、地元の方の伝承記憶をお聞きすると、現大和町に池田城主筋の菩提寺である大広寺とは別に池田家中の武士を弔う寺があったとの事です。この寺についての調査は行われおらず不詳ですが、同寺は戦国時代に焼かれて以来、再興される事はなかったようです。元禄時代に作成された池田郷の地図を見ても、その付近は空き地になっています。
しかし、江源武鑑の「南ノ口ヘ足軽ヲ出シ防ク處ニ」との記述を考える時、池田城の防御構造と一致するところがあります。更に、この想定される付近からは、大小の五輪塔が出土しており、地元の方の伝承(寺の存在)とのつながりを、感じざるを得ない環境が整っています。また、この時の織田信長勢は、池田城下に火を放ったと記述にあります。
大和町内で多数ある五輪塔は、その時の死者も弔ったものかも知れませんが、はっきりした事はわかりません。また、戦死した高山門内のものもあるかもしれませんね。高山は、侍大将で足軽組頭と云う事で、鉄砲隊なども含めて池田勢を指揮していたようです。
織田信長は京都への上洛、更に摂津侵攻した中では、池田城が最大の激戦地で、あまり手こずっては外聞が悪い事と織田勢の中にも同姓の池田を抱えており、短期間に決着をつけたかったようです。美濃や尾張の池田家と摂津の池田家とは相互に既知の関係だったようです。裏切りなどを心配したかもしれません。
この「江源武鑑」は気になる記録ですし、南ノ口も興味ある場所ではあります。これが本当なら、池田城の防衛戦はかなり南にまで設定されていた可能性も高いと考えられます。
▲ マップ(詳細図)はB-イ ▲
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