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<城下に酒造家が存在したか>
池田では応仁年間(1467〜1469)に満願寺村から移ってきて、酒造業が始められたという伝承があります。その満願寺屋の家伝によると1764年(宝暦14)時点で既に「二三百年以前より酒造仕候様に相聞へ」との事で、これにより池田での酒造を始めた時期が推定されています。しかし、それに伴う発掘は現在まで行われていません。
また、この酒造に携わっていたのが荒木氏だったとの事も伝わったりしています。後に摂津守となる荒木村重の系譜かどうかはわかりませんが、興味の尽きない情報です。
その満願寺屋は江戸時代には大変栄えるのですが、盛者必衰のことわざ通り、次第に衰えて大正時代にはその建物さえ取り壊されて、池田での歴史を閉じます。その建物があった場所は、池田城のすぐ南を通る能勢街道上で、城からも至近の距離でした。単純に考えるとその立地も偶然とは思えない要素があるのかもしれません。
さて、当時、この「酒造」というのは社会的にどのように捉えられていたのでしょうか?
酒は今と同じようにあらゆる階級で消費されるものですし、反面、神事などの行事にも用いられます。その実態を理解しようとすれば、学問にもなってしまう程の深さですが、これをその潜在的需要から考えて、産業として捉えるとどうなるでしょうか?
やはり、こういった消費物資を生産する工場を城下に持っていたという事は非常に大きな意味があったに違いありません。
それが、池田家やその政治・軍事面など、有形・無形にどのような意味を持ったのかは、研究もされていないため不明ですが、当時の社会(地域)構造を知る上でも重要なものになることでしょう。