町の構造を大きく左右する道路について、現在の地図上に江戸時代(1667年・元禄10)の道路を重ね合わせてみると、元禄時代の道路が現在もよく継承されている亊と、それを基にした道路の新たな拡張・新設、旧河川の道路化の状態を良く捉える事ができます。
道路の拡幅が一番早かったのは、産業道路として1931年(昭和6)から3年計画で着工された府道大阪-池田線でした。この工事で、それまで5メートル前後の道幅で曲がりくねっていた新町通りは、道幅15メートル程の直線道となりました。また本町通りの延長線に呉服橋へ抜ける道が新設されました。更に1935年(昭和10)頃には栄町通り(旧林口町・田中町)が西側に拡幅され、栄町通りを横切って西へ通る道(高槻-大和線)は戦時中の防災路を戦後に整備したものです。
その後桜通り(菅原新町線)が新設、旧大西垣内通り(綾羽1・2町目境)が拡幅されました。旧大西垣内の通りは道幅も4メートル弱と狭く、中之町通りとT字形に交わっていましたが、中之町を分断して延長され、道幅も北へ拡げられて、道幅約13メートルの大道となりました。
箕面-池田線は1959〜60年(昭和34〜5)頃にそれまでの細い道が拡げられ、旧荒木町通り(本町-城南線)も拡張されました。
しかし、その他の道路は道幅も旧状を維持していて、道幅は本町通りが約7メートルと最も広く、中之町通りが5メートル前後でこれに次ぎ、他は約2メートルと狭い道です。こうした道路の拡幅・新設は道路周辺の状況を一変させるとともに町に構造変化をもたらしました。
こうした道路による生活圏の分断は外でも見られ、これまで一体であった中央部でも、その間の道が東西に貫通し大道となった亊によって、南北2つのブロックに分断され(綾羽1・2町目)ました。旧東本町も新設道路によって東西に分けられる結果となりました。今ではこれに加えて、道幅の拡幅・新設は交通量の増大となり、騒音・排気ガス等の公害を生む事となっています。自動車通行を禁じた本町・栄町の商店街を別にすると、道幅が狭く、最も良く伝統的建造物を残し、現在では殆ど住宅街と化した中之町通りにも自動車の交通量の増加をもたらしましています。
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